9カ月後の石巻を歩く 2/2

被災したクルマが集められていた。救急車もあった。それぞれの車体には、引きあげた日時がきちんと書き込まれている。震災当日から半年以上もたった日付が記入されている。こういう地味でつらい仕事を、誰かがこつこつとおこなってきたのだと、あらためて知らされる思いがした。

屋根がもげていたり、窓ガラスが割れていたりするものがある。黒焦げになっていたり、ぺしゃんこにつぶれていたりするものもある。いちばん端には、やはり被災したスバル360が一台、ぽつんと置かれていた。

遠くの工場の煙突から、白い煙だか水蒸気だかが猛然と吐きだされていた。

自動車が行き交う幹線道路を北へ、すなわち日和山のほうへ向かって戻るような格好で、歩く。道路は応急的に盛り土し、そこにアスファルトを敷いたものであるようだった。車両優先で、歩行者のことまでは考えられていないらしく、歩道などはない。通行車両の邪魔にならないよう、路肩の砂利の上を歩く。道の両側は低くなって水がたまっている。海岸よりの土地は全体にやや沈降しているのではないだろうか。

日和山の南斜面の直下に行き着いた。鉄筋コンクリートの四角い建物が残っていた。小学校の校舎だった。3階まである建物のガラスというガラスは破れ、被害の甚大さを物語っていた。そればかりか、校舎は黒く煤けてもいた。火災被害にもあったようだった。

校舎の東側には墓地がある。墓石の多くは倒壊していた。一部は整理されているらしく、きれいに横たえられていた。墓地のなかで、蛍光色のジャンパーを着たひとが数名、作業をしていた。復旧支援へ感謝する旨の文言の書かれた看板が立てられていた。その向こうに、お寺の本堂の大きな屋根が残っていた。

徹底的に日常が破壊されたかに見える光景のなかに、再び日常が芽吹いてもいた。

墓地の奧の少し高くなったところに、フェンスで囲われたテニスコートらしき場所があり、箒か何かを手にして、ゆっくりと整地作業をしているらしい人影があった。犬をつれたおじさんが、小走りに散歩していた。大破した建物の隣で、床屋さんが営業していた。赤青白のサインポールがくるくる回転し、窓ガラスには露がびっしりついていた。

市内を歩いて駅まで戻る。往路よりも一本山よりの道。住宅がならび、人の姿も多い。小学校では子どもたちが体育の授業をうけていた。さっきの場所からはほんの数百メートルしか離れていない。日和山の陰になっているので、地震被害はうけたものの、津波は到達しなかったのだろう。ひと口に「被災地」といっても、9カ月後の様相は、さまざまであるように感じられた。

帰路も仙石線で仙台へ戻り、新幹線で帰宅した。

石巻出身の知人Iさんにメールを出した。以前かれから、一度石巻を見に来てほしいと言われていたのだった。今回の訪問の報告をしつつ、なんの役にも立たない訪問者にすぎなかったことを詫びた。

折り返しIさんから返事が届いた。ちょうど実家に帰っており、今日もボランティアで片づけ作業に行ってきたという。とにかく現実を見てほしい、だから来てくれてよかった、と書いてくださっていた。

Iさんが帰省していたのは、お母さまが急逝されたためだった。かれのお父さまは、先述の、津波と火災の被害にみまわれた小学校の隣の墓地に眠っている。

石巻の街にも、まもなくクリスマスが訪れる。

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