年賀状の言葉

年賀状に書き添える挨拶文において「おめでとう」という意味の言葉を忌諱しようという話があるらしい。3.11に関連し、被災したり傷ついたり悲しんだりしたようなひとたちへ「配慮」しようというのが理由だそうだ。

なるほど、そういう考え方もあるだろうとおもう。実際に被災した方々のなかには、「おめでとう」という言葉を口にしたり目にしたりするような気持ちになどとてもなれないというケースもあるだろう。そういうひとびとへの配慮は大切なことであるだろう。

そうした配慮が配慮として成立するのは、では、どんな場合だろうか。基本的には個別に、つまり具体的な相手が想定されているケースではないかとおもう。あるいは、鎮魂・慰霊・怒りなどの理由により賀状発信者の側に「あけましておめでとう」や「謹賀新年」といった類の言葉を忌諱する強い意志があるようなケース。それもまた、ひとつの立場であるといえるだろう。

しかし、ひと口に「配慮」といっても、事情の異なるケースもある。「例年と同じ文言ではマズイ」とばかりに「おめでとう」忌諱現象を盲信するようなばあいは、どうだろうか。

そこにある「配慮」とは、他者にたいするものというより、むしろ自己の立場の防衛に向けられたものであるというべきだろう。どこからも叩かれないように無難な方向に先手を打つことばかりに汲々とし、結果的に自縛を重ねていくような、そんな風潮の一環にあるような気がしないでもない。

どんな言葉も、文脈のなかで初めて意味をもち、機能する。じっさい新年の挨拶でいう「おめでとう」は、新しい年がやってきたことに感謝し、期待をもって迎え入れるという意味であるだろう。再生という意味あいが込められていると考えることさえもできる。それを旧年の厄災にたいする評価につなげて受けとってしまうことがあるとすれば、その解釈の仕方は相当にアクロバティックだといわねばなるまい。

というわけで、わが家では例年どおりに年賀状を作成し、例年どおりに(遅れ気味で)発送します。もし万が一ご気分を害される向きがありましたら、あらかじめお詫び申しあげておきます。