経験の量

高校サッカーの決勝戦を観た。といってもテレビ観戦だ。

子どもたちは千葉生まれ千葉育ちの千葉っ子だし、《みの》など同年代なので、とうぜん市立船橋高校を烈しく応援する。最後に延長戦後半に市船が勝ち越しを決めたときは、《みの》と《なな》はひじょうによろこんだ。市船、優勝おめでとう。

ぼくもサッカーの試合を観るのは好きだ。ところが、これが難しい。潮目というか流れというか構図というか、そういうものがまったく読めないのだ。

サッカーの試合とはもともと流動的な性質のものなので、そこに由来する部分も大きいのかもしれない。しかし世の中にはそれでも試合の流れをきちんと読めるひとも少なくない。

したがって、これは基本的にはぼく自身の問題である。何よりもサッカーの試合を観たり実際にやってみたりした経験の絶対量がまるっきり足りないせいだとおもう。

ぼくにとって、それはちょうど映画や書物に接するときと正反対の状態だといえる。映画や書物なら、押さえるべきポイントが見えないというレベルで困ることはないし、それなりに潮目も読める。いいかえれば、構図として抽象化した形で捉えることが(それなりには)できる。少なくとも、皆目見当がつかないというレベルでまごつくことは、まずない。(商売柄それは当然のことなのかもしれないのだが。)

では、映画や書物についてならそれが可能なのは、なぜなのか。知識の蓄えが多いから、ではない。まがりなりにも一般に比べ、それなりの量を観、それなりの量を読んできたからである(それでもまだまったく不足しているのだが)。いちおう編集渡世の経験もある。

ものごとを把握したり理解したりするさいの基盤をなす重要な要素として、経験の量というものは大きな鍵を握っている。

もちろん「経験のないやつは口を出すな」という類の言明のように、経験というものに価値を置きすぎるのは危険であるのだとしても。

サッカー中継を観ながら、あらためて、そんなことを考えた。