この世の中の知識や知見に「無駄」というものはない。無駄な人間がひとりとして存在しないのと同じように。そこに要不要という基準が入り込む余地はない。ただ、その特定の何かを無駄と捉えるようなものの見方があるだけだ。
いかなる分野であろうが、無駄な学問など一片も存在しない。近年よくいわれる効率や有用性や生産性も、たしかに大切ではあるだろう。しかし、それもまたひとつの尺度にすぎない。尺度は複数存在するし、その優位性は時代によっても変わる。ある時点において有益と考えられてきたからといって、その尺度が普遍的な価値をもっているわけではない。
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すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる。自明の理だ。過去も現在も、未来ではないのだから。それでもひとは、現在を過去の延長と捉え、それを外挿することで将来を予想しがちだ。そうした「予想」や「予測」は、多くのばあい「期待」や「欲望」との混合物である。いずれにせよそれは、未来が現実になったとき、しばしば裏切られる。
世界が明日どうなるかなど、じつのところ誰にもわからない。そのことを逆手にとって、まるでひとりだけ未来を先どりして見てきた予言者のようにふるまうことはできる。現にそうしたがる者もいる。けれど、そのことと、事実として未来の予見可能性を有することのあいだには、なんの連関もない。
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未来とは、いまだ経験されていない事態である。そのような事態とは、誰もそれについて経験から語ることができないということだ。では、そのような事態に遭遇したとき、ひとは事態をどう理解し、どう対すればいいのか。
さしあたりぼくたちにできるのは、過去の経験をとおして蓄積してきた知識や知見を総動員することくらいだろう。けれど、それだけで事態を乗り越えられることは、まずない。なにしろ事態は、いまだ誰も経験していないものなのだから。知識はあくまで、過去の条件のなかで生起した事象から抽出され、蓄積され、一定の有用性を認められてきたものである。だから知識はつねに更新可能性にひらかれている。暫定的なステータスにありつづけている。
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いまだ経験されていない事態に遭遇したときに不可欠なものとは何か。それは、新しい考え方であり、新しいビジョンや発想であるだろう。
むろん知識も必要だ。しかし先述のとおり、それだけでは不十分である。新しい考え方のもとで、手持ちの既存の知識は読み替えられたり編み直されたりしなければならない。あの手この手でもって。
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大事なことは、そうした新しい考え方は、どんなひとにでも編みだしうるということだ。特殊なひとだけがもつ特殊な才能や霊感に帰されるべきものでもなければ、むろんマニュアル的な手続きによって半自動的に産出されるものでもない。現に、多くの「ふつう」のひとびとが、それぞれの現場で、それぞれに工夫や創意をこらしながら、黙々とそれぞれの仕事や生活に取り組み、少しずつでも何かを前に進めている。
新しい考え方や発想が芽生えるためには、それを可能にする豊かな苗床が欠かせない。その苗床は、ふたつのものから成り立っている。第一は、さまざまな経験や幅広い知識、そして多様な価値観にたいする深い理解である。そうした知見や理解の習得は、みずからの「引き出し」を豊富にしてゆくことを意味している。第二は、知識を組織してゆくことを可能にする、その仕方である。さまざまな観点からものごとを立体的に把握する視座、論理的かつ柔軟な思考といったものがこれに相当するだろう。
とはいえ、その大半は、特定の目的に直結してただちに役に立つようなものではない。もしそのような観点から見たのなら、無駄にしか見えないものであるかもしれない。けれどそれは、秋の落葉を見たときに、それをゴミとしかおもわないような見方である。よい作物にはよい苗が不可欠であり、よい苗を得るためには豊かな苗床が必須であり、そして豊かな苗床はけっして速成できるような性質のものでないことを、あらためて知るべきである。
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そうした苗床を養うことが、今日の大学教育が担う重要な役割のひとつであると、ぼくは信じている。多様で豊かなさまざまな苗床を養うこととは、つまり、ひとびとが、それぞれ多様で豊かなかたちに、みずからを育んでゆくことにほかならない。それを支援することが教育機関の役割というものだろう。それは、大学にかんして近年よく語られる二分法──文系と理系、実学と教養、グローバルとローカル、上位校と下位校などといったような──とはまったく関係ない。どんな分野・領域でも、表面的な表れ方はどうあれ、まともな教育であるかぎり、そのような視座を射程に入れていないはずがない。
その役割は、必ずしも大学だけが特権的に担うものではないだろう。しかし同時に、大学というセクターが、もし仮にその役割を担わなくなったのだとしたら、どうだろう? ほかにいったいどんな存在理由があるというのか。
要不要という基準から国が大学教育を弁別しようというのは、本来もちえたはずの多様な可能性をみずから破棄しようとしているに等しい。
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かつてジェフ千葉やサッカー日本代表を率いたオシム監督の言葉が思い出される。かれは、こんな意味のことを言っていた。誰かのことを不要だと言いたてる人間は、いずれ当人も同じことを言われるのだと──。そのとおりであるだろう。