『TOP HAT』を観てきた

東急シアターオーブで『TOP HAT』を観てきた。英国キャストのやつである。たいへんおもしろく観た。できることなら、あと1-2回観にいきたいくらいだった。

作品については後述するとして、ユニークだったのがカーテンコール。このときだけはケータイで撮影可だという。撮影した写真をネットで拡散して宣伝してほしいというわけだ。そのときiPhoneで撮った写真がこれ。

主役たちがステージで踊るだけではない。途中からアンサンブルが通路まで降りてきて踊る。

演っているほうは大変だろうが、観ているほうは愉しい。ちなみに、ぼくの座席のすぐ前には某歌劇団のひとたちがずらっと一列ならんでおり、このときは立ちあがって拍手しておられました。

さて本作品は、RKO映画『トップハット』(1935年)の舞台化である。80年前の映画がこれまで一度も舞台化されていなかったという事実に軽く驚かされる。

しかも、映画版のほうはアステア=ロジャースものの代名詞ともいえるフィルムである。その舞台版ともなれば、どうつくったところで物言いがつくだろう。ぼくとしても一種怖いもの見たさという部分が一切なかったといえば嘘になる。前に観た舞台版『雨に唄えば』など、正直かなり残念であった。

だがそれはまったくの杞憂だった。いやむしろ、ぼくの想像をはるかに凌駕するほど、この舞台版はすごかった。ぼくのように、ミュージカルの規準はアステアだと信じている人間にとって、それは感服に十二分に値するものだ。「原点はアンドリュー・ロイド=ウェバーです」みたいなひとにはまた違う意見があるだろうけど。

もちろん俳優も歌も踊りも演出も舞台装置も、どれもとてもよく練られていてすばらしい。俳優たちの風貌や雰囲気も、映画版のそれを明らかに意識しているし、振付なども映画版のそれにかなり忠実だ。なんだか映画版がつくられて以降の80年間など存在しなかったかのようである。

そうした脱歴史性は、本作品のひとつの特徴であるだろう。じじつもっとも驚かされるのは、80年前の映画版になにも付けくわえようとしていないことである。

というと、なにかまったく工夫がないと難じているかのように誤解されるかもしれないが、そうではない。むしろ逆に、あらゆる創意工夫が施されている。

たとえば映画版でつかわれている楽曲はたった5曲しかなく、実際いま観るとスカスカで間延びしている感があるのは否めない。これにたいして舞台版は、アーヴィング・バーリンの他の楽曲を追加し(ぼくの知らない曲もあった)、見せ場たっぷりである。存分にタップを披露する主人公ジェリーはもとより、ヒロインであるデイルにはソロで存分にうたわせ(演じたシャーロット・グーチは個人的にはジンジャー・ロジャースよりずっときれいだとおもいました)、脇役であるマッジとホレス夫妻や恋敵役となるイタリア人服飾デザイナー・アルベルトにもそれぞれ見せ場を与えている。全体のテンポも速く、一幕二幕とも密度は濃い。

しかしそうしたさまざまな創意工夫は、あくまでも映画版の枠組みの内側の充実に費やされており、その外部へ踏みだすことはけっしてない。映画版を極端なまでにリスペクトし、その枠組みを損なうことなく、むしろ原作品である映画版がもし現代に転生したらどうなるか、その可能的な姿の実現をめざしているといってもよい。RKOの映画版そのままに、というよりむしろ映画版以上に映画版らしく、あの世界を展開しようとしているのだ。そしてそのパッションがあらゆる細部にみなぎっている。

たとえば現代性について。この手のリメイクでよくあるのは、原作品を「現代」の文脈で読みなおそうとするパターンだ。具体的には、登場人物やシチュエーションの設定に変更をくわえたり、舞台を置き換えたりと、しばしば手がくわえられる。しかしこの作品では、そういう「工夫」はほぼ一切なされていない。人物設定もシチュエーションもストーリーラインも、なにもかも80年前の映画版をきっちり踏襲している。

関連して、現代的なポリティカリー・コレクトな配慮も、おそらく意図的に避けられている。たとえば『グリー』のようなテレビドラマを観ればわかりやすいのだが、主要な登場人物には黒人がおりアジア系がおり障がい者がおり、といったぐあいに、現代の作品では社会のなかのさまざまなマイノリティに配慮する必要があり、それがまた実際問題コードとして機能している。

しかしながらこの点においても、舞台版は80年前の映画版そのままである。登場するのは白人の男女ばかり。イタリア人はやっぱりステレオタイプに誇張されており、「現代的」に修正しようという気などまるで持ちあわせていないようだ。のみならず、それらの特徴を、映画版よりもより強調しているとさえいえる。そして、そのような態度は、映画版のもつある種の魅力が失われることを確実に防いでいたということができる。

だから舞台版について、ひとによっては保守的というような印象をうけるかもしれない。それはそれでわからなくもないのだが、表面的な印象であるようにぼくはおもう。

なぜなら本作品は、やりすぎなくらい精密かつ壮大な「トップハットごっこ」であるからだ。原作品である映画版『トップハット』以上に『トップハット』的なのだ。それゆえ、ある種のニセモノ性と強迫性を帯びている。

こまかな例をあげるが、『頬よせて (Cheek to Cheek)』のシークエンスのデイルの衣裳も、映画版をあきらかに踏襲している。白い羽のドレスで、ターンするたびに羽が抜け落ちる。ぼくは初めてこの映画をスクリーンで観たときに、あまりの抜け毛のひどさにびっくりしたものだが、そうした細部までもきっちりと再現している。それは映画版をリスペクトする気持ちに由来するのだろうが、観る側としてはある種の過剰性を感じないわけにはいかない。

それゆえ舞台版は、ひじょうに精巧でありながら、同時に人工的で非自然的な印象を与えるものである。映画版がアナログ録音時代の音のように、音と音がまじりあって遠近感を浮かびあがらせているのだとすれば、舞台版はデジタル時代のそれのように、どこまでいっても音と音が分離して奥行き感を欠き、それでいながら隅々まで焦点があわさって奇妙にくっきりしている。

脱歴史的でニセモノ的で強迫的。であるのなら、これ以上ないというくらい現代性に富んでいるといえるのではないだろうか。