「配慮」としてのSEO——SErO=検索エンジンそこそこ最適化

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新年早々ではありますが、ふだんどおりの感じで記事をあげさせていただきます。

当ブログにおけるSEOへのスタンスについて

前回はWordPressにSEO対策用プラグイン All in One SEO Pack を導入した話を書いた。これに関連して、当ブログにおけるSEOなるものへのスタンスについて書きとめておきたい。

いちおう最初に断っておくのだけど、ここで述べる考えは、その道の詳しいひとから見れば「なに言ってんだ?」というような話かもしれない。だが、べつにぼくの意見を一般化しようなどとは毛頭おもっていないので、こういうスタンスもあるというような話でご理解ください。

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「配慮」としてのSEO

さて本題。ぼくはもうずいぶん長いこと自前でブログを運用しているのだが、これまでいわゆるSEO的な方向には必ずしも積極的な努力を払ってきたわけではなかった。現在もそうだし、今後もたぶんそうだろう。

ただそれは、まったく何もしないということとも少しちがう。ネット上でブログを運営する以上は、最低限のSEO的な対策はしておいたほうがいいし、できるだけ心がけておくべきだとおもっている。好むと好まざるとにかかわらず。

というのも当ブログにおいてはSEOをつぎのように捉えているからだ。すなわち、よくいわれるような「集客を目的とした手段」ではなく、「書かれたものをしかるべき読者へ届けるための配慮」として。

「しかるべき読者へ届ける」ためのSEO

SEOは多くのばあい「いかに集客するか」という目的の下に語られる。もしそのとおりであるのなら、SEOは当ブログにはほとんど不要だろう。ブログをビジネスや売名の手段にするつもりなどまったくないのだから。(むろんそういう使い方が悪いというのではない。あくまで個人的なスタンスの話である。)

しかしながら、そのように商売気ゼロの非ビジネス志向サイトであってもSEOは一定程度必要だというのがぼくの個人的な意見である。SEOの考え方は、あるいは「集客」をめざすことを念頭に開発されたのかもしれないが、その効果には「しかるべき読み手に届けやすくする」という側面が含まれているからだ。

当ブログのばあい、誰かに頼まれたり命じられたりしたわけではなく、ぼく自身が好きでやっている。書きたいことを書きたいから書いている。書く理由がどうあれ(そして内容の有用性がどうあれ)、その根本にはまちがいなく、しかるべき読み手に読んでもらいたいという欲求がある。

書かれたものをしかるべき読み手に届けるためには、なんらかの形で両者を仲介する「しくみ」が不可欠だろう。「なにもしなくても中身がよければ読み手のもとにはいずれ届く」という立場もあるかもしれないが、いちおう以前に出版業界にそれなりに身をおいた経験をもつ人間としては、そうした見解はナイーヴに聞こえてしまう。残念ながら現実的には、埋もれてしまう可能性のほうがはるかに高い。ましてや今日のように、膨大な量の情報にあふれた(という言い方さえ陳腐なくらいの)ネットにおいては。

ネットは「中間」を中抜きして生産者と消費者を直接に結びつけるなどと、ひところよく言われた。だがそれは「中間」が単純に消滅することと同義ではない。既存の「中間」が、インターネット上に展開するなんらかのサービスに取って代わられた(もしくは溶けあった)というケースが大半であるはずだ。

ブログにおいても同様である。そこでもまた程度の差はあれども、書き手は読者との「中間」にあって両者を仲介する「しくみ」に頼らざるをえない。現在のネット環境において、その「しくみ」の筆頭はまちがいなくGoogleをはじめとする検索エンジン(あるいは各種のSNSなど)である。その良し悪しは別として。

だから今日ブログやサイトを運営するのであるのなら、これらを頭から拒否したり回避したりしていても仕方ないとおもうのだ。かといって、検索エンジンやSNSにふりまわされるのもうれしくない。だって、当ブログはビジネスではなく、たんに個人として好きでやっていることだから。検索エンジンなどとは付かず離れずという感じで、ほどほどの距離感を保っておくのがちょうどいいのではないかとおもう。

サイトがめざすものから考える

けれど、ほどほどの距離感を保つことはじつはむずかしい。拒否したり熱狂したりするほうがずっと容易である。

ではどのようにすれば「ほどほどの距離感」を測距することができるのか。大事なのはいうまでもなく、じぶんのサイトがなにをめざしているかという点を再確認することだ。

当ブログのような非ビジネス志向のサイトのばあい、読者の量的拡大はさほど優先事項というわけではない。もっとも大切なのは、しかるべき読み手に適切な仕方で届けやすくすること、であるだろう。

ぼくの書くものは、著書であれ論文であれブログの能天気な記事であれ、そもそも量的拡大志向とは無縁のものである。だから、SEO的言説が好んで強調するような「集客」には関心がないし、必要性もない。

重要なのは別の点である。すなわち、著書においてそうであるように、読んでくださるひとは少数でもかまわないが、その少数の読み手はとことん大事にしなければならないということだ。

その少数の読み手がどこにどんなふうにいるのか、ぼくの側からは直接にはわからない。だからその(可能的な意味での)読者にたいして、しかるべき仕方で書かれたものが届けられるような配慮が必要だし、そのための手だてや道筋を一定程度整備しておく必要があるとおもう(必ずしも「双方向」でなくともかまわないわけだが)。

そして個人でやっているブログであれば、それはあくまでその個人としてなされるべきことであろう。当人自身に理解可能な方法で、さまざまな面において無理なく実行可能な範囲で。

SErO=検索エンジンそこそこ最適化

そこでSEOという語をあらためて考えてみる。それはSearch Engine Optimizationの略語であり、訳せば「検索エンジン最適化」である。つまりSEOが対策している相手とは、一義的には検索エンジンであって、人間ではない。ならば、あまり変な気をつかう必要もないのではないか。

当ブログでは、むしろ「SErO: Search Engine reasonable Optimization(検索エンジンそこそこ最適化)」くらいに考えておきたい。「まぁだいたいこんなもんじゃないかな」程度でいいのではないか、ということだ。

それは、無理のない程度に一定の対策は施しはするものの、効果の最大化という意味での「最適化」をめざさないという態度である。「最適」というと、なにかピンポイントの究極的な正解に達しないといけないような窮屈さが感じられてしまう。個人でやっている非ビジネス志向サイトでそんなふうに生真面目に「最適」にこだわりすぎると、話がややこしくなるだけ。ろくなことにならない。

「まぁだいたいこんなもんじゃないかな」程度で十分だとするSErOとは、「書かれたものをしかるべき読者へ届けるために無理なくできる範囲の配慮」ということだ。効率という観点からいけば不十分かもしれないが、何もしないよりはずっとマシである。そしてそのうえで、あとはサイトを充実させることに知恵や時間を投入したほうが建設的だし愉しいのではないだろうか。もとよりoptimizeという語には「楽観する」という意味もあることだし。

当ブログにおいてはいまのところ、以上のようなスタンスでSEOを捉えている。

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