映画『FAKE』のラストショットについて 3/3

映画『FAKE』のラストショットについての話の第3回(最終回)です。

話の都合上ラストの部分に触れていますので、この先を読むかどうかは各自ご判断ください。

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なお、よろしければ第1回第2回と順に読んでいただけるとさいわいです。

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でも、このタイミングでこのワンフレーズ的質問を発した瞬間、監督は圧倒的に高みにたってしまったように、ぼくには見えてしまった。

ただしそれは監督がみずからの思想で対象を断罪するというような意味ではない。どう転んでも(映画として)「勝てる」ポジションを手に入れてしまった、ということである。

そこまで持ち込んだ監督を褒めるべきなのかもしれない。けれど、ぼくにはよくわからなかった。

むろん「真相」とか「客観性」みたいな「正解」へ到達するべきだという、ありがちだけどドキュメンタリー映画とはあんまり関係のない発想から言うのではない。そうではなく、あれのどこが対象との「化学反応」なのかが、ぼくには理解できなかったのだ。

むしろ逆に、最後の最後にワンフレーズ的にあの質問が投げ出されることで、佐村河内夫妻(夫と妻のパッケージという点を強調しておきたい)の作中での描き方を、わりに通俗的な関心の範疇に吸引させてしまうことになりはしないのかな、と感じられた。

通俗的な関心とは、「実際のところ聞こえるの」「実際のところ作曲できるの」「実際のところ奥さんの関与は」などといった「真相はどうなの」的な関心のことだ。本作品では、それについて直接判断をくだすことからは距離をとるという構えをいちおうは見せているものの、監督なりの考えはあんがい示されているようにおもわれた。

だからこそ、最後にあの質問がくりだされた瞬間、話は「わかりやすいわからなさ」へと萎んでしまう。

あんなきれいな終わり方でなくてもよかったのではないか。そのほうが、あの夫妻のもつ平凡さと奇矯さ、それゆえの得体の知れなさみたいなものをもっと浮かびあがらせることができたのではなかったか。夫妻のそうした姿は、あの一連の「騒動」現象をなんだかんだ言いつつけっこう「愉しんだ」わたしたち自身の姿の裏焼きでもあるのだし。

いや、それを狙ってこそのあのラストショットだったと、もしかしたら言われるかもしれない。

だが仮にそうであったとしても、監督が高みにたってしまったドキュメンタリー映画は、後味が悪いに決まっているとおもう。

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騙って他人をだませば詐欺である。それは犯罪もしくはそれに準ずる行為だろう。

しかしそのことと、一般に人間がなにかしらの隠し事をもつこととはぜんぜん別の話だ。

隠し事の一切ない人生なんてどこにもない。そのほうがいい人生だというわけでもない。ジンメルがいうように、人間どうしの関わりには一定の無知と相互の隠蔽が不可欠なのだから。

だから問うべきことは「どのように」のほうであろう。ドキュメンタリー映画はそのすぐれた媒体たりうるとおもうのだけど。

この項おしまい