前回の投稿で、チェルノブイリを訪れたことに関連して、観光という現象に、「光」をみるものと、いわゆるダーク(闇)ツーリズムのようなものとに区分する根拠は必ずしも自明ではない、なぜなら、観光地を訪れる観光客の態度ないし「まなざし」は、メディア化した社会に見られるそれと同じだから、という話を書いた。そのつづき。
観光客の態度ないし「まなざし」とは、あらかじめたっぷり蓄えているイメージを現地において投影するものである。投影し、照合し、確認し、そして所有する。
観光客による当該観光地の「所有」とは、たとえば自撮りのような行為によってなされる。チェルノブイリのような「ダーク」な場所であったとしても、やはりひとは自撮りをする。
自撮りとは、落書きのようなものである。落書きにはいくつかのパターンがある。その典型のひとつが、観光スポットに落書きを残してくる行為だ。これは古くから見られる現象である。いまも世界各地の観光スポットにゆくと、あちらこちらに落書きが見られる。よくもまあ、と関心するくらいの情熱である。
落書きには、抑圧された意識の噴出という側面がある。ぼくは以前に、JR京葉線舞浜駅南口のデッキにならべられたこじゃれたベンチ群の表面に、まるで耳なし芳一のようにびっしりと落書きされていることを発見した。鍵のような硬くて尖ったもので塗装を削り、落書きが刻まれていたのだ。
落書きの内容は、名前やイニシャルだけでなく、性的なもの、容姿の美醜にかんするものなど、生々しいものがめだつ。そうした生々しい事柄は、舞浜に立地する東京ディズニーリゾート(TDR)のいずれのパーク内部の「世界」からは、きれいさっぱり拭い去られ、端から存在しない「ことになっている」ものだ。TDRを訪れたゲストたちも、その「お約束」を受け入れ、あたかもそうした事柄は端から存在しておらず、したがって興味をもちえないものであるかのようにふるまう。それゆえに、TDRの「世界」の境界から一歩外部へでたとたん、それまで抑圧されていた意識が噴出する。それがこのベンチ群の落書きなのだ。くわしくは拙著『アトラクションの日常——踊る機械と身体』(河出書房新社)で論じたので、興味のある方は参照されたい。
後日譚がある。ぼくの本が刊行されたあと、舞浜駅前の当該ベンチ群は撤去され、ステンレス製のものに置き換えられた。ステンレスは硬く、落書きしたくてもできない。すなわち、ここに噴出していたTDRゲストたちの意識は、ふたたび抑圧された。だがそれは、モグラたたきのようなものだ。たんに抑圧されただけであって、解消されたのではない。また別のところに別の形で、ことによってはもっと面倒な形でもって、噴出するだろう。
さて、ひとはなぜ観光スポットに落書きを残すのか。そこにはもうひとつ「署名」という側面がある。一例をあげよう。アラスカの果ての果て、北極圏の入口にたつ記念碑である。裏面にまわると、びっしりと落書きが残されている。
北極圏入口のこの記念碑までは、フェアバンクスから日帰りツアーがでている。つまり、人口希薄なこの北限の地にあっては、観光スポット化しているといえる。そして、そうした観光客たちが、ここへ到達した「記念」として、落書きを残してゆく。
チェルノブイリでも同様だ。原発近くにある廃墟となったプリピャチには、その廃墟の建物のあちらこちらに落書きが残されている。その行為自体は、かつてアメリカの月探査船が、月面に星条旗を掲げてきたのとなんら変わらない。「署名」であり「所有」なのだ。
たとえば文書における署名とは、その文書に記載された文言の責任の所在を示すという意味で、文言の所有をあらわしている。同じように、署名としての落書きは、所有の欲望に突き動かされたものである。
それゆえに、自撮りもまた署名であり、所有である。あらかじめ抱えこんだイメージを現地に見出し、じぶんがそこに到達し、所有した証として、じぶん自身をイメージのなかに映りこませるのだ。自撮りが署名であることは、自撮りにおいて、撮影者=被写体がつねに、ピースサインのようなきわめて定型化された類型的な決めポーズをとることからもわかる。
あらかじめ抱えているイメージの現地への投影・照合・確認・所有という諒解のプロセスと、それを駆動する態度ないし「まなざし」。これらは、観光という現象においてのみ固有に見られるものではない。メディア化した社会(現代的日常)にひろく通有されている。観光もまたメディア化した社会を織りなす一部なのだ。
観光という現象が興味深いのは、それが日常の外部にあるからではなく、メディア化した社会のありようが濃縮されたホットスポットのひとつであるからだろう。それが、メディア論研究者としてのぼくの見方である。