『さよならテレビ』の逆説

東海テレビのドキュメンタリー映画『さよならテレビ』は、「テレビの今」をテレビみずからとらえようとする意図をもってつくられた作品である。残念ながらその狙いは、一個の作品としてうまく結実しているとは言いにくい。ところが、作品として必ずしも成功していないという意図せざる形でもって逆説的に、当初の意図、すなわち今日のテレビがいかなる困難の闇の只中にあるのかを描きだしている。

テレビについてテレビが語る自己言及は少なくない。だが、批判的に自己を相対化するのはむずかしく、たいていは自画自賛や自己憐憫にとどまる。これにたいし本作品は、すでに「マスメディアの王様」の地位から没落してひさしい21世紀のテレビを冷静に相対化しようとする視線を、それなりに保持しつづけているように見える。それは、業界に生きる人間として勇気ある態度と、ひとまずよんでよいとおもう。

日本におけるテレビの黄金時代は、見方によるが、おおむね1970年代後半から1990年代前半ごろであった。ここでは、メディア産業論的な観点よりも、より思想的な観点から考えたい。すると、黄金時代のピークは1980年代だといえるだろう。

1980年代、テレビはその舞台裏を好んで視聴者に見せるようになり、それを見せ金にして視聴者の「参加」を促し、抱き込むようになった。それをテレビ的リアリティとよぶことができるかもしれない。テレビ的リアリティの核にあったのは、メタ・フィクショナルな語りである。

伝統的なフィクショナルな語りにおいて、メディアはみずからを透明化することで、語られる内容がフィクションであることを隠し、あたかも自然であるかのように受け手に感覚させることを志向する。

いっぽうメタ・フィクショナルな語りでは、フィクションであることを包み隠さずあらわす、というよりは、むしろ露出症的に仕掛けや舞台裏を積極的に見せつけつつ、そこに視聴者を「参加」させて巻き込んでしまう。そして、そのように世界をメタ・フィクショナルなものとしてとらえる感覚こそが今様なのだと開き直って叫んでしまう。その開き直り方こそが1980年代においては新鮮であり、既存のマスメディアがもちえない魅力と感じられた。そのようなテレビ的魅力をもって、テレビは、テレビ自身が好む類型化された言い回しでいえば「時代の寵児」となり、80年代後半の文化的爛熟の主熱源となった。

1980年代においてテレビが圧倒的な影響力をもちえた源泉は、ポストモダン社会を半歩先取りしていたがゆえにもたらされたものだった。したがって、社会そのものがポストモダン的になってしまったことがひろく感覚されるようになってしまえば、その力の源泉は価値を失い、枯れてしまう。1990年代以降におきたのは、そういうことだった。つまり、テレビはみずからが先取りし、それによってみずからを「王様」の地位に押し上げてくれたものとまったく同じ力動によって呑み込まれ、凋落したのだ。

メタ・フィクショナルな世界とは、「ネタだよ」といって後出しじゃんけん的に舞台裏を種明かししてみせることができる世界である。後出しに限界はなく、いくらでも反復可能だ。だからそこに現出するのは、いってみれば合わせ鏡のような無間地獄である。あらゆるものから既視感を剥ぎ取ることができず、出口は見あたらず、外部を呼び込むことができない。むろん「新しそうに見えること」をそれとして語ってみせることなら、いくらでもできるし、げんにそうしている。だが、語ることと外部性を導入・実装することは違う。どうすればそれができるのか見通す手立てすら見つけられない。だれにも。もちろんテレビにも。

さて、この作品もまた、そのようにして際限なく反復されてゆくメタ・フィクショナルな語りをみずから反復する。自覚的に、というよりも、そうせざるをえないからだ。そのようなふるまいは、それ以外の身体技法をもちえていないことをはからずも追証しているといえる。しかし同時にそれは、みずからがはまり込んでにっちもさっちもいかなくなった困難を身をもって示しているともいえる。

この作品について、テレビの「タブー」によく挑戦した、よく描けている、よくがんばった、といったようなタイプの反応は、もちろん、あっていい。映画なのだから、だれがどのように観てもかまわない。

ただ、ぼく個人のきわめて身勝手な願望としていえば、そういう発言をするひとがテレビやマスメディア業界の内部者であってほしくはない。ニヒリズムとしてでなく、みずからの無力さにどれだけ深く絶望できるか。そこからしか始まらないとおもうからだ。

1月2日より公開。予告編はこちら。

東海テレビドキュメンタリー劇場第12弾『さよならテレビ』予告編

公式サイトはこちら。

映画『さよならテレビ』公式サイト
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