大学時代に「危機」に遭遇するということ

ぼくのまわりにいる学生も含めて、大学生のこの時期にCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)をめぐるこの一連の「危機」に遭遇したことを、不運だと考えているひとは少なくない。無理もないとおもう。大学へ入構もできないどころか外出さえまなならず、バイトもできなくなり、授業はおろか就活の面接までオンライン。

けれども、けっしてマイナスばかりではない。あえてポジティブに考えてみれば、大学生のうちにこの騒ぎに遭遇したことは、かつてないといっていいほどきわめてレアな経験であるのだともいえる。

というのも、「危機」のときにこそ、「平時」には分厚く隠蔽されて直接表にはあらわれにくい物事の素のありようが剥き出しになるからだ。

あられもない格差、優柔不断で無責任なシステム、見せかけばかりの建前だけが空疎に響く一方、あちこちから迫る猛烈な同調圧力、などなど。

これらは、「危機」に見舞われたあとになって初めて生起した問題ではない。これまでも、ぼくたちの社会のなかにあって、これを支え、織りなしていたものだ。だが、それらは構造化されているため、「平時」には分厚い皮膜に覆われているように隠蔽されており、直接にはっきりとは見きわめにくい。それでもぼくたちは、息苦しさや閉塞感として、これらがもたらす帰結を感じとってきていただろう。

いま露わになっているのは、息苦しさや閉塞感をもたらしていた主要因たちである。「危機」の到来によって、「平時」の社会を覆っていた分厚い皮膜が裂け、ふだん目にすることのむずかしかったその姿を直接垣間見ることができるようになったのだ。

それは、いってみれば、ぼくたちの生きる社会の素顔、厚塗りをそぎ落とした素の顔貌だ。ぼくたちはいま、そのあまりの醜悪さやぐだぐださ加減に、とまどったり、怒りを感じたりしているのかもしれない。

しかし、その愚かで醜い素の顔貌の持ち主こそが、いまぼくたちが生きている社会である。同時にそれは、大学生たちが、やがて「学生」という立場のシールドをほどかれたのちに、ほぼ素手で投げ込まれる世界でもある。かれらもまた、この世界のなかを、どうにかやりくりして生き抜いてゆかなくてはならない。

ウイルスの影響はこの先も長くつづくのだという。だが、社会の素の顔貌が露呈する「ボーナス・タイム」は、そこまで長くはつづかない。すでに「アフター・コロナ」や「ポスト・コロナ」などといった言葉が怪しく飛び交っていることからもわかるように、「平時」のバックラッシュは始まっている。ぽっかりと口をあけた社会の裂け目は、むりやりにでも縫合されようとしている。

だから、いまのうちである。世の中で起きる事どもを、できるかぎりよく見、よく聴き、そして、よく吟味すること。