横並びの食事・団らん抜きの「家族」——「新しい生活様式」と憲法改正自民党草案

緊急事態延長にともなって政府が持ちだしてきた「新しい生活様式」。とりわけ「横並びの食事・団らん抜き」の推奨が興味深かった話のつづきである。

「新しい生活様式」を読んで戦時国策スローガンを思い出した話
緊急事態が(予想どおり)延長されることになったが、そのさい併せて「新しい生活様式」なる摩訶不思議なお達しが発せられた。「新しい生活様式」の奇怪さについて語りだすときりがないので、ここでは「日常生活の各場面別の生活様式」という項目で...

政府の唱える「新しい生活様式」が想定する食事の場所が、飲食店なのか自宅なのかは不明である。だが自宅で一切飲食しないような生活パターンは日本では少ないから、自宅や家庭が想定に含まれていると見て差し支えないだろう。

だとすると今回、家庭・家族間においても「横並びの食事・団らん抜き」を、ほかならぬ政府が積極的に推奨したことになる。この事実は、じつに興味深い。

「横並びの食事・団らん抜き」と聞いたとき、映画好きなら誰しも『家族ゲーム』(1983年)を思い出したことだろう。森田芳光監督、松田優作主演のこの映画では、家族が横並びで食卓につく有名なシークエンスがあるからだ。

映画『家族ゲーム』((C) 1983 日活/東宝)映画.comの当該作品ページ・フォトギャラリーより引用 https://eiga.com/movie/7947/gallery/

たしか長回しだったと記憶している。カメラが捉えるのは、細長い食卓と、その向こう側に一列横隊にならび、子どもの受験合格祝いの食事会をひらこうとする家族一同の姿である。卓の中央に坐っているのは、松田優作だ。家庭教師という、家族にとって「異物」という役どころである。いうまでもなくこの画面の構図は、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を踏まえている。食卓ではほとんど会話はなく、まさに「横並びの食事・団らん抜き」そのまま。そして食事が進むにつれ、座はめちゃくちゃになってゆく。

『家族ゲーム』における「横並びの食事・団らん抜き」のシークエンスは、相互に関連する二つのことをあらわしていた。ひとつは、伝統的・保守的な「家族」なるものの現代における虚構性と崩壊である。そしてもうひとつは、その前提となるステレオタイプな「家族」イメージとしての「食卓囲み団らん」の食事風景である。テレビ的な常套句でいえば「お茶の間の団らん」というヤツだが、現実の日本社会にどれほど「お茶の間」なる空間が存在しているかを考えてみれば、それがいかに現実離れした虚構にすぎないかはわかるだろう。

さて、ここでもうひとつ想起してよいのは、現在の首相をはじめとする与党自民党がいだく「家族」のイメージについてである。それはまさに保守的で伝統的な「家族」のステレオタイプである。それを示す資料として、自民党が2012年につくった憲法改正草案を見てみたい。

この憲法改正自民党草案は、国家を個人よりも上位に置こうとする考えにもとづいており、旧憲法へのノスタルジアに溢れた時代錯誤的な内容となっている。ぼくは憲法学者ではないが、以前にこの点について言及したことがある。

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注目したいのは、この憲法改正自民党草案には「家族」にかんする条文が付加されていることだ。現行の日本国憲法には存在しない文章をわざわざ新設していることから、ぜひとも書き加えておきたいという強い意思がはたらいているのは間違いない。というのも、この草案では、「家族」は、細胞として「国家」を構成する最小単位、すなわち「プチ国家」ともいうべき「国家」の末端代理店みたいなものと位置づけられているからである。

新設された条文には、こう書いてある。(くりかえして確認しておくが、現行憲法にはこのような記述はまったく存在しない。)

(家族、婚姻等に関する基本原則)
第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。(以下略)

この記述によれば、「家族」は「自然」、すなわち疑うことができない自明な社会集団であり、ゆえに、成員である個人は「プチ国家」である「家族」への「助け合」い、すなわち奉仕が義務づけられているということになる。草案においては、それこそが「家族」の「正しい」存立形式なのだ。別言すれば、草案が想定する形式以外のさまざまな「家族」の様態は正統なものではないと述べているわけで、「家族」の多様なあり方を拒否する内容となっている。

草案が想定するような「正しい家族」は、自民党国会議員たちの頭のなかだけにしか存在しないようにおもわれるが、仮に現実社会のどこかに実在したとしよう。すると、かれらは例外なく、食事時には食卓を(横並びではなく)取り囲み、料理だけでなくおしゃべりをたのしみ、団らんしているはずである。『サザエさん』の磯野家のような「食卓囲み団らん」こそが、伝統的で保守的な「正しい家族」のステレオタイプをもっとも強力に指し示すイメージなのだから。

ところが、今回「新しい生活様式」において、ほかならぬ政府自民党自身が、これまでかれらが信じてきた「正しい家族」を象徴する「食卓囲み団らん」をしてはならぬと言いはじめた。

しかも、「新しい生活様式」とやらが、感染症の拡大が収まるまでの急場しのぎではなく、今後ぼくたちが長きにわたって遵守すべき「新しい生活様式」として発せられたのだという。だとすれば、かれらがぼくたちに求めているのは、たとえ「正しい家族」であったとしても、これからは「食卓囲み団らん」をしてはならず、「横並びの食事・団らん抜き」を墨守することである。

じつに興味深い話だとおもう。なぜなら、それは、かれらがこれまで前提として信じて疑うことのなかった「正しい家族」なるイメージを、図らずも、みずから毀損・解体・破壊しようとしているに等しいからだ。

憲法改正自民党草案が想定しているような国家中心主義的な社会改造は、その土台からして、まったく時代にそぐわない。その事実を、当の政府自民党自身が(その自覚の乏しいまま)炙り出してしまう。感染症の拡大という現象が媒介するものは、皮肉が効いている。

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