白熱教室の学生たち

教育テレビの『ハーバード白熱教室』が話題である。ぼくも数回みた。前にNHKの中のひとから、この番組の特徴は、視聴者層が偏らず、どの層からも一定の視聴率をとれる点にあるのだと教えられた。いろんな形で読み解くおもしろさがあるということだろう。

ぼくの目から見ると、番宣のポイントとは裏腹に、講義の中身については、まあそんなものかという感じ。社会学的な頭には、政治哲学的な──というかサンデル教授の議論の組み立て方は、整理が行き届いて論理的に緻密かもしれないが、その前提がナイーヴにおもわれてしまう。

見どころは、中身よりもむしろそこに展開する授業の光景である。かれらの文化の中心に、まさに弁舌が息づいているさまをありありと見てとることができる。

サンデル教授の話は、英語圏の知識人の講演がしばしばそうであるように、しゃべった言葉がそのまま原稿にできるくらい整理されている。プレゼンテーションソフトなど小道具は一切つかわない。場を盛りあげるためのこれ見よがしの工夫もない。それでも話は十分おもしろく、学生たちも熱心だ(ときどき居眠りしているらしき学生が見えたりもする)。

それにも増して興味深いのは、意見を求められて発言する学生たち。稚拙であろうと偏りがあろうと、自己の意見を述べる。いちおう論拠らしきものも、それなりに示し、論理的に話そうとしている。反論も出る。そうなれば、それに応戦したり、ばあいによってはきちんとそれを受け入れて意見を修正することもできる。

こういう姿が実現するのは、そこがアメリカだから、とか、ハーバードだから、とか、あるいはテレビ取材が入っているから、というだけの理由で説明しようとする向きもあるかもしれない。たしかに、そうした事柄は無関係ではないだろう。でもぼくの知る限り、米国以外の、たとえば韓国や中国の学生たちも、それぞれの文化の流儀に則りつつ、しかしじぶんの意見を人前できちんと話すことができるように見える。学校だけでなく日常生活のなかで、そのようなトレーニングを積んでいるようにおもわれる。

翻って、ぼくがふだん接する大学生たちはどうか。残念ながら、かれらも同様であるとはいいにくいのが実状だ。なるべく目立たないよう、その場をどうやり過ごすかということばかりに頭をつかっているような学生がけっして少なくない。良くも悪くもグローバルな時代において、かれらが直接間接に協働したり対決したりしなければならないのは、ありもしない「空気」を読むことばかりに長けたドメスティックな仲間内以外の、さまざまな文化のひとびとであるというのに。

ただ、それは学生たちがユルくてヌルいから、という説明だけでは不十分だ。なぜなら大人たちだって大差ないのだから。職場の会議や打合せをみてみれば、すぐわかる。そこで目にする光景は、大学の授業におけるそれと本質的に変わりない。

そんな話を一年生の授業でしたところ、どうした勢いか、急に何人もの学生が手を挙げて発言するようになった。まだかわいいのである。

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