劇団四季のミュージカル・コメディ『クレイジー・フォー・ユー』が再演されている。子どもたちの学校の代休日の夕刻、一家してぞろぞろと観に行った。4、7、11歳からなるわが家の三兄弟たちにとって、舞台のミュージカルを経験するのは、これが初めてである。
チビたちがどういう反応をするか興味があった。観劇中、横目でちらりとようすをうかがう。なんのことはない、ふつうの大人と変わらず、笑うところで笑い、歌や踊りに大いに拍手していた。あとで7歳と11歳の二人に訊ねると、かれらのお気に入りは、酒場での撃ちあいのシーンであり、酔っぱらった二人の「ザングラーズ」による鏡像のような動きであり、酒瓶を受け取り損ねるシーンだった。身体ギャグばかりである。4歳児は、2, 3日後の昼寝のあとに突然、バタバタバタと足を踏みならしたかとおもうと、椅子を積みあげてそのうえに載り、新聞紙でつくった旗を奉じて、ポーズを決めた。 “Stiff Upper Lip” のシーンのつもり、なのだろう。
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さて、作品について。『クレイジー・フォー・ユー』は3回目である。四季の初演(1993年)は日生劇場で見た。ボビー役の加藤敬二は、当時もいまも、はまり役だ。身体がしっかり動くから、ダンスだけでなく身体ギャグのシーンもきれいに決めることができる。ポリー役の樋口麻美を見るのは初めてだが、カラッとした声がよく抜けていて、動きも軽やかだ。ロンドン・キャストのRuthie Henshallに、ちょっと似ているかもしれない。小道具を巧みにつかうアイディア溢れる振付は、スーザン・ストローマンによるもの。とくに、 “I Can’t Be Bothered Now,” “Slap That Bass,” “I Got Rhythm” あたりは感心するばかりだ。(余談だが、2006年度トニー賞授賞式を見ていたら、『ドラウジング・シャペロン』の紹介シーンで、セットにこの『クレイジー・フォー・ユー』のポスターが貼ってあった。)
和田誠、高橋由美子による邦詞は、アイラ・ガーシュインの原詞の音と意味を両立させたまま日本語に置き換えた労作である。映画字幕も「俳句とかコピーライターの世界」といわれるほど並大抵ではないというのに、音や音符まで考慮しなければならず、作業は大変だっただろう。にもかかわらず、日本語の宿命ゆえ、原詞よりも音素が貧弱になってしまうのは避けられず、どうしても平板に聞こえてしまうのが悲しいところだ。むろんこれは訳者の責任ではないのだが。
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客席は、とにかくあたし四季のファンです、という感じの女性たちであふれていた。これだけ多くのひとがミュージカルを楽しみに足を運ぶ状態を、一過性のものではなくつくりあげたのには、並々ならぬ創意と努力があったはずだ。四季は、日本にミュージカルを定着させた立役者である。ブロードウェイで、あのアンドリュー・ロイド=ウェーバーですら、新作 “Woman in White” を一カ月で閉じざるをえなかったことは記憶に新しいが、そうした厳しさとはまた別の種類の厳しさが、日本にはあるからである。もともと土壌のないところで、独自の方法を編みだして、ミュージカルを、文化としてだけでなくビジネスとしても成立させた。その点において、四季にはどれだけ強調してもしきれない功績があるといえるだろう。
じっさい、今回の『クレイジー・フォー・ユー』は、役者も、歌も、ダンスも、そして観客も、一定の水準の場を創り出すことに成功しているということが、さしあたりはできる。日本でこの状態をつくり出すこと自体、くり返していうが、大変なことである。しかし日本だからこの程度でよしという水準に甘んじるつもりは、四季の側にも毛頭ないはずだ。だから、一定の、それなりの水準にあることは認めたうえで、つぎのような指摘をしておきたい。
それはダンスにおけるディテールの精度である。たとえば “Entrance to Nevada,” “I Got Rhythm” など、アンサンブルで踊る場面で、決めのところでバラけてしまう。タップのリズムも、身体の動きも、だ。フォーダー夫妻のようなペアで踊るときも同様である。手の動きが対称的にそろうべきところで、バラバラになってしまう。こうした精度の低さは、仮にひとつひとつは細かくて目立たないものであったとしても(観客の質によるが)、全体から躍動感を削ぎ、もっさりして散漫な印象のものにしてしまう。付けくわえておけば、程度の差はあれ、これは十数年前に見た四季版『クレイジー・フォー・ユー』の初演時から変わらない問題である。
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ところで、幕間を含めて三時間の観劇をたのしんだわが家の三兄弟は、帰りがけに隣の劇場で『ライオンキング』をやっているのをめざとく発見した。そして、次はあれを見ようよと三人で共同戦線を張って訴えるのだった。