労作である。
撮影監督木村大作はじめての本編監督作品。映画作品としては、うまいとはいいにくい。演出はぎこちない。脚本は、寡黙であったり、妙に説明的であったりと、局面ごとにモザイク状だ。クライマックスは拍子抜けするほどあっけない。ラストは原作からかなり単純な方向で改変され、えらく凡庸でステレオタイプな終わり方をむかえる(この点は後述する)。全体に渋く抑え気味の役者陣にあって、宮崎あおいのでてくるシークエンスだけが異様である。
画面はさすがにうつくしい。しかし、たとえばロングでさらに引きながら上にティルトアップして遠方の山々まで映し込むというショットが複数回みうけられることでわかるように、局所において顕在する細かいこだわりが、全体としてみるときにバランスを逸しがちで危なっかしく映る。
けれども、それでもこの作品にはある独特の存在感がある。それは気概や迫力によってもたらされるものだと考えることができる。それらはどこから来たのかといえば、おそらくは原作と山ないし登山にたいする敬意であろう。
作品前半で感じられるぎこちなさは、後半の、劔岳周辺をえんえんと調査してまわる場面から徐々に薄れてゆく。そこには、何か特別な世界にたいし、拒絶されることをくりかえしながらも、少しずつうけいれられてゆくようすが淡々と描かれている。失敗もあれば、競争もある。齟齬や軋轢、誤解もあれば、不当な仕打ちをうけることもある。それでも黙々と山を歩き、資材を運び、みずからのしなければならないことに取り組む。その人間の営為が、かれらを包みこむ山々の圧倒的な存在感と重ねあわされてゆく。
そうした印象をいだくのには、ぼくも山登りをする者の端くれであることが少しは関係しているのかもしれない。たとえそうだとしても、それはこの作品の価値を損なうものではないだろう。
精確で精密な地図を作成することは、国民国家の成立と運営に必要不可欠である。陸地測量部の測量官たちひとりひとりは、当然のことながら必ずしもそのことについて自覚的だったわけではなく、陸軍や国家の思惑と、自己研鑽や自身の栄達といった個人としての欲望とのはざまであがきながら、測量術という技術に奉じるテクノクラートとして、地図作成を自己の使命に位置づけて、困難のオンパレードである職務に精魂を傾けただろう。
しかし、そうしたいかにも明治人的なジレンマを、この作品では最終的に「仲間」という言葉に象徴される水準で解消しようとする。それは一種の思考停止であり、非政治的であるからこそ政治的であるような、そういう種類の回収の仕方である。本作品最大の瑕疵はここにある。
トムラウシにて大量遭難事故発生の報に接する日に。