興福寺の境内に鹿がいた。見たかぎり、ざっと20頭。のそのそ歩いている。
実物の鹿を初めてみた《くんくん》は、たちまち気分が高揚した。近くにいた一頭の子鹿めがけ、にこにこ顔で「しかさーん」と駆けていった。
いっぽう子鹿のほうは、高速で接近する《くんくん》を発見するや、頭を少し低くして、《くんくん》のほうへ向かって突進してきた。鹿の頭が《くんくん》の胸に正面からぶつかった。頭突きされたのだ。
《くんくん》の顔は真っ白になった。目はまんまる。あわててこちらへひきかえしてきた。動物の世界は、けっして「かわいい」ものではない。
国宝館に入ると、なかはずいぶん混んでいた。興福寺の国宝が展示されているのだが、ミュージアムというより宝物殿といったほうが適切だ。年代順ではなく、お宝を開陳する、という趣旨である。
なかでも阿修羅像は、国宝館の展示のハイライトであろう。この像は、昨今の仏像ブームの中心にあるともいえる。なにしろ「阿修羅ファンクラブ」(会長みうらじゅん)まである勢いだ。
阿修羅像は、ちょうど千手観音と向きあうような位置にたっている。三面六臂。三面は、ひとつの精神を織りなす三つの相貌とすると、ピカソの人物画そのものである。正面の顔は眉を寄せ、不安をふりはらうようにして、一心に正面にある何かを見つめ、祈っていた。
このたたかいの神は、もう1300年も、こうして祈りつづけてきたのだ。