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号泣する男たち現象

前回「フラガール」のエントリーで、登場人物がやたらに泣いたり大声で怒鳴ったりするのは、日本映画の「伝統」だと書いた。ほかのところでも、日本映画のスクリーンは涙に溺れそうだと述べたことがある。このような印象は、べつに最近もつようになったわけではない。ずいぶん前、ぼくが映画館でリアルタイムに日本映画を見始めた1979年ごろから抱いているものだ。無粋を承知でわざわざ記すが、むろんこの「伝統」のことを、個人的にはどうやっても好ましいとは考えられないでいる。そして「伝統」と呼ばれるものの多くがそうであるように、このつまらぬ「伝統」も、ある時期からつくりあげられてきたものだろうと推測している。

すると、似たような意見を述べる記事を見つけた。「号泣する男たち」(朝日新聞11月15日朝刊文化面)である。こんな内容だ。

近年、日本映画・テレビドラマには、人目もはばからず号泣する男たちが頻々と登場する。主役の男が泣くこと自体は戦後(この記事の文脈では、第二次世界大戦の後という意味である、念のため)すぐのころからあったが、当時は泣く主役と泣かない主役という役割分担が明確だった。ところが高度成長期になると、泣いているばあいではなくなった。だから高倉健も石原裕次郎も泣かず、泣くとしても「背中で」泣いた。「そんな主役たちが時代の気分を表していた」(同記事)。それが近年の「泣きブーム」へと変転した。直接的には韓流ブームの影響であろう。だが「号泣する男」は、観客を泣かせるための、わかりやすい説明装置にとどまっているにすぎない。

──少なくとも現状認識と問題の切りとり方についていえば、大筋でぼくも同感だ。このような記事が出ることは、よいことだとおもう。そのことは確認をしておきたい。とはいっても、同記事に全面的に賛成するのは少々ためらわれる。号泣する男たち頻発現象の理由探しを急ぎすぎているからだ。これでは、肝心な部分をつかまえ損ねてしまうし、記事が批判している「何でも説明しすぎる風潮」に、みずからの足許をすくわれかねない。

号泣する男たち現象を、とりあえず韓流ブームとの関連で考えてみることは、それなりに有効だろう。それは単純な影響関係──といえば聞こえはいいが、ようは真似っこ──というようなことだけではなく、韓日間の文化コードの違いを浮き彫りにもする。一口に「泣く」といっても、その意味あいが両者でだいぶ違うと気づく。韓流の作品のなかでは、たしかに男もよく泣く。だが、泣くだけではない。喜怒哀楽の感情が豊かに、はっきり目に見えるかたちで盛り込まれている。そのなかのひとつとして、泣くことも描かれる。日本映画のばあいは違う。喜怒哀楽が前景化することは、基本的にない。そのなかで、泣く。本来喜怒哀楽を面に出すことが抑圧されている男が、それでも泣く。だからそこには特別な意味が込められており、その独特の悲哀を描きあげている──ことになっているのだ、日本的な文脈では。

だが、日本映画・ドラマのつくり手側のそうした「美学」は、仮にかつてそれが「美学」としてそれなりに機能した時期があったのだとしても、今日では多くのばあい建前でしかない。現実に画面のなかにあるのは、同記事が的確に指摘するとおり「観客の涙を誘う装置」でしかないだろう。ここで注意が必要だ。「装置」などと大仰な言葉をつかうと、あたかもそれが手練手管として、つくり手側がそのような「装置」を構成し、観客を泣かせてやろうと仕掛けているように受けとられるかもしれないし、実際そんなつもりでいる者も一部にあるのかもしれない。

しかし、それは誤った理解である、と少なくともぼくにはおもわれる。文化コードや時代の気分も大事だろうが、まず出発しなければならない地点は、そんな小難しい場所ではないのだ。

すなわち、号泣する男たち頻発現象は、なにかというとすぐに怒鳴りあう男女や、一から十まで説明してくれる台詞と同様、なによりもまず、つくり手側の作劇面、あるいは演出面の足腰のひ弱さの帰結である。画面をどう構成していくか、ドラマをどう構築していくか。そこに心血を注いで粘り強くさまざまな工夫を凝らしていくという基本的な態度が、体よく放棄されている。観客への甘え、観客軽視ないしは蔑視というほかない。

映画、ドラマ、小説、あるいはブームといった社会的現象。それらがどんなメカニズムによるのか、理解したいと考えることは大切だ。だがその説明を下手に急くならば、「世相」や「時代」の「反映」という構図に落ちてしまう。この手の反映論は、マスメディアに溢れる「わかったような」解説のかなりの部分を占めている。残念ながら、反映論では多くのばあい、なにも説明したことにならない。ちょっと立ち止まって考えみれば、だれにだってわかるはずだ。映画やドラマが「社会」や「時代」を「反映」させるという前提自体、まったく自明ではない。そもそも、結果でもって原因にあてるとは同語反復にほかならない。