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納豆ダイエット騒動

2週間ほど原稿その他諸事に追いまくられていた。ブログ更新もままならず、ろくに映画も見に行けなかった。テレビもほとんど見ないから、世間の動きを知るのに頼りになるのは新聞とネットだけという隠遁ぶりだ。で、この間、世間を騒がせていたのが『発掘!あるある大事典II』(関西テレビ制作、フジテレビ系列で放送)の納豆ダイエット騒動である。

経過をたどれば、1月7日「食べてヤセる!!!食材Xの新事実」放送→納豆を大量に購入する客たち→小売店店頭から納豆払底→メーカー大増産→捏造発覚→関テレ謝罪まるで誠意なし→スポンサー撤退・番組打ち切り→過去にも捏造か→大バッシングがさらにネタに→……てなぐあいだ。事態はあれよあれよの乱高下、さながらジェットコースター式という言葉を地でいくところがある。

25日には、抗議の電話とメールが一万件を越えたらしい。この記事を見て、ちょっと考え込んでしまった。

かれらのうちのいくらかは、番組の視聴者だったろう。さらにそのうちのいくらかは、番組を見て、あるいはその話を小耳に挟んで、納豆を買いに出かけた経験の持主だったろう。番組の内容が捏造されたものだったという事実は、かれらの行動の根拠となった情報が、そもそも事実に反していたことを意味する。したがって、かれらがそのような偽の情報を与えた番組の制作と放送にかかわった機関を非難するのは当然である。

じっさい、科学ふうの装いをこらしながら、その実科学的手続きを無視して恣意的な結論をもっともらしくでっち上げる行為に、弁護の余地は一切ない。問題となった番組自体をぼくは未見なので、あくまで報道が事実だと仮定したうえでの話だが、今回の番組の内容は、科学的知見の誤用や誤解というようなかわいらしいものではなく、意図的な捏造だとしかいいようがない。制作環境や視聴率競争の厳しさなど、それが事実であったとしても言い訳にはなるまい。対応する関係者の鈍感ぶりときたら、このような行状が業界にめずらしくないからではないか──と疑われても仕方あるまいというようなものだ。だから、番組の視聴者(および潜在的視聴者)が放送局や制作会社に抗議するのはもっともなことだし、放送界にとっても視聴者にとっても必要なことだ。

その一方で、こうもおもうのだ。そのことと、小売店に突如大勢の客が集中して納豆が売り切れてしまったこととは、区別されるべきではないのか。

捏造発覚以後の展開は別とすれば、今回の事件そのものは三つの層にわけられる。
(1)捏造された内容をもつ番組が制作され放送されたこと、
(2)その結果として事実に反する情報があたかも事実であるかのような形で視聴者に与えられたこと、
(3)小売店に客が殺到し店頭から納豆が姿を消すほどの異常な売れ行きを示したこと、である。

このうち(2)は、(1)による当然の結果として引き起こされた事態である。だが(3)は、(1)(2)による必然の帰結とはいえない。番組を見て、あるいはその話を側聞するなりして、一日二パック納豆を食べるだけでダイエット体質になるという情報を得ることと、現実に小売店店頭に納豆を求める客が殺到するという尋常ならざる現象が生じることのあいだには大きな断絶がある。人間の行動は、与えられる情報によって自動的に決まるわけではない。大昔のマスコミュニケーション理論じゃあるまいし。

納豆を買うという行為が実現されるためには、その当人において、得られた情報をもとにつぎにとるべき行動にかんして、なんらかの「決定」がなされなければならない。決定とは、無数の可能性のなかからひとつだけを選択することであり、同時に残りのすべての可能性を切り捨てることである。決定とは、なんであれ能動的な行為だ。だから、(1)(2)についての抗議は理に適っているが、もし(3)までもがとくに峻別されることなく含まれているのだとしたら、どうだろう? 気持ちはわかるけれど、ちょっと違うとおもうのだ。

たしかに今回は、決定の前提となる情報が誤っていた。だから、その決定は不本意な結果をもたらしただろう。だがよく考えれば、今回に限らず、いかなる決定にさいしても、把握している情報がすべて正しいことは保証されていないのだ。情報の精度をあげることは重要だし、そのような努力はむろん必要だ。だが、100%正しいと保証された情報だけで決定することは原理的にありえない。だから決定とは、つねに不定の結果に向かって開かれている。うまくいくこともあれば、期待どおりにいかないこともある。おもいもかけない結果を招くことすらある。どのような結果であれ、その結果をもたらした決定を判断し実行したのは、最終的にはほかならぬ当人自身である。だからその決定の結果は、どうであれ、まず当人が引き受けるほかない。

いうまでもなく、納豆を大量に買い込んだひとたちもまた、捏造番組の制作者や放送者へ抗議する権利はある。ただし、その抗議とは別に、みずからの決定とその決定がもたらした帰結を省みることもまた必要なのではあるまいか。それを欠いたままの抗議は、たんに軽挙妄動の責任を転嫁している、ということになりかねない。それでは、なにも変わりはしない。これまでそうだったように。(断っておくが、捏造を擁護するつもりは一切ありませんので、念のため。)