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夏休みは休みではない

前期の授業が終わった。といっても、なんだかんだと業務が残っており、完全に解放されるのはお盆直前である。まだまだ先は長い。

先日、小学校の青パトのボランティアをしていたら、同乗者の方がこんなことをいう。「大学の先生は夏休みが長くていいですね、二カ月も三カ月もあると聞きましたよ」。もちろんそのひとにまったく悪気はない。ただ通有されている通念を述べただけだろう。逆にいえば、世間ではなんとなくそう考えているひとが少なくないということだ。

しかしこの通念は、少なくともぼくの知るかぎり、二つの点において現実と齟齬をきたしているといわねばならない。

第一に、大学教員の夏休みは、ここ数年、着々と短縮されている。オープンキャンパスやらなにやらの行事が増えたこともあるが、直接の要因は、授業期間が伸びているためである。セメスター制の半期で15週(回)という授業回数は、従来あくまで目安にすぎないはずだった。ところが、ここ数年それが絶対的な縛りと化しつつある。

さる筋の話によれば、それは文科省の意向なのだという。15回分の授業内容と目標を事前に示したうえで、そのプログラムをきっちり実行せよというのだ。事前に設計したプログラムをそのとおり実行すれば、つねに期待どおりの成果が得られるという考えは、工場生産における品質管理の発想そのものであり、まさに〈アトラクション〉である。もし本当に文科省がそう考えているのだとすれば、高等教育を製品生産の比喩でとらえることの妥当性の欠如が指摘されなくてはならないだろう。

第二に、大学教員にとって、夏休みというのは、バカンスという意味でのいわゆる休暇ではない。それは研究や調査や執筆のためにあてられるべき、まとまった時間である。

そもそも研究者は一般に、趣味と仕事、あるいはオンとオフなどというような、よく目にする二分法が適用しにくい生活スタイルをもっている。平日・週末問わず、仕事から完全に離れてまったり休暇をたのしむことなどない。しかし授業期間中では、授業の準備や厖大な学務の処理に追われ、もっとも重要であるはずの研究に割ける時間はひじょうに限定される。まとまってものを考えるためにはまとまった時間が必要であり、それが夏休みが貴重であるゆえんである。

だから、目先の形式をそれらしく整えるために、むやみに授業回数を増やして期間を延長したり、なんだかんだとイベントにかりだしたりして夏休みを削減することは、具体的には研究者から研究の時間を奪うことを意味している。それはただちに教育の質的低下をまねくだろう。つまり、ここでもまた、大学がみずからじぶんの首を絞めている、ということだ。

たくさん授業すりゃいいというものではないのだ。

ぼくのばあい、この夏に手にできるじぶんの時間は、実質一カ月足らず。それでもとにかく、ようやくまとまってものを考えることができる。この夏をかけて取り組むべきぼくの課題に、これから向きあうことになる。