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映画『Space Battleship ヤマト』

太平洋戦争に敗けてから65年。この間日本ではおびただしい数の特撮やアニメ作品がつくられてきた。そのかなりの割合を、なんらかの形で「戦争」を描く作品が占めている。この事実は何をあらわしているのか。

考えようによっては、戦後の日本社会は、65年前のあの敗戦をそのまま事実として淡々と受け入れることができず、特撮やアニメ作品という形を借りて、あの戦争を意味づけようとするシミュレーションを重ねてきたのだともいえる。

その代表的な作品のひとつにあげられるのが『宇宙戦艦ヤマト』だ。

アニメ番組・映画の実写版ということで話題らしい。だが見どころは、木村拓哉や黒木メイサや実写のヤマトだけではない。

もともとこの作品は、70年代の世界認識をもとにつくられている。もとのテレビ版には、1945年4月、旧海軍の戦艦大和が沖縄特攻に出かけ、坊の岬沖で米艦載機の攻撃によって撃沈される場面が描かれていた。22世紀末を舞台にした『宇宙戦艦ヤマト』とは、あのとき沈んだ大和、そして敗戦した日本にたいし、あらためて「意味ある生(と死)」を付与しようとした語りだったのだといえる。

そのような「往年の名作」は、21世紀において、どのように解釈されうるのか。あれから40年が経過し、その間に世界はすっかり異なる様相を見せるようになってしまった。そうである以上、これもまた重要な見どころであるはずだ。

そして皮肉なことにこの作品『Space Battleship ヤマト』は、70年代ナショナリズム的な語りを21世紀のグローバル時代にそのまま持ち込むと、テロの論理になってしまうということを、図らずも実践してみせることになってしまった。

地球に攻撃をしかけるガミラス星は、圧倒的に強大な力をもって極悪非道の限りを尽くす絶対的な悪として描かれる。げんにガミラスの宇宙船は不定形というか、それ自体が怪獣のようであり、あらわれる兵士たちも個性をもつ者としては描かれない。のみならず、明確な姿形も与えられておらず、それは「異形のもの」、われわれとは徹底的に異なる他者として表象される。

もちろん異者をこのような形で「他者」と表象することは、じぶんたちのことを「被害者」としてのみ捉えようとする視線と表裏一体である。

したがって、地球の「平和」をとりもどすためには、絶対悪であるガミラスにたいしてなら何をしてもいい。地球の者から見れば、われわれはガミラスに一方的な暴力を受けている被害者なのであり、それに対抗することは明白な「正義」なのだから。地球を「守る」ためには、ガミラスは最後のひとりまで抹殺したところで、かまわない。そして実際、ガミラス星ではその中枢を徹底的に破壊する。ここでは、近年のこの種の戦争映画はしばしば同じような役まわりを担う柳葉敏郎が、みずからの命を賭して、その任務を遂行する。

そして最後は「特攻」である。「特攻」とは、いうまでもなく太平洋戦争末期に旧日本軍がとった、もはや正規軍とはいいがたい、戦術ともよべない戦術を淵源とした言葉であるが、ここでは、圧倒的な「敵」を前にして、みずからの生命と引き換えに「敵」の抹殺を目論む行為のことをさしている。

そのような「特攻」という行為を、「愛する者を守る」という大義名分にもとづく「自己犠牲」として語ろうというのは、前回の投稿「予科練平和記念館」でも述べたとおり、国民国家による国民国家のための典型的な言説パターンである。それがここでも反復される。むろん劇場版の第2作(という扱いでいいのかな)『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』(1978)の踏襲であろう。

そして本作品での「特攻」もまた、主人公・古代進の「自己犠牲」ぶりが礼賛されるように描かれるわけであるが、同時にそれは、かれらによって母星が破壊されたあと、流浪するほかなくなったガミラス星の最後のひとりまでをも抹殺するための破壊行為でもある。いいかえれば、ここにおいて「民族浄化」を貫徹してしまうのである。

こうして、古代による長々とした演説が主張するドメスティックな「愛」と「自己犠牲」の論理は、自爆テロのそれと何も変わらないことになってしまう(ちなみに太平洋戦争の旧日本軍によるいわゆる「特攻」は、国民国家間の戦争でのことであり、近年の自爆テロと同列に語ることはできないはずだ)。

以下、具体的な指摘をいくつか。

作劇について、基本的な姿勢は支持したい。もとの作品の基本的な設定・ストーリーを踏襲する姿勢は評価されるべきだ。往年の特撮やアニメの名作をリメイクする試みは近年いくつかあったが、多くが設定やストーリーを大幅に変更してしまい、結果としてつまらない作品になってしまうケースが少なくなかった。本作品では、もとの作品にたいして十分な敬意が払われており、いわゆる名台詞や名場面もきちんと実写でやってみせている。

とはいえ、いくつか変更を施している箇所もあり、それらはいずれも作品の要となっている。最大のものは物語の設定上の変更点にある。つまり、なぜヤマトはイスカンダル星をめざすのかという、旅の「目的」である。これについては、もしかすると賛否が分かれるところかもしれないが、ぼくはなかなか興味深く、評価すべきポイントであるようにおもう(ただし、もっとうまく展開できたはずだが)。人物設定のうち、何人かが女性に変更されているが、これもおおむね成功といっていいのではないか。明らかな失敗は、高島礼子の佐渡先生だけだ。

しかし難点は演出である。ドラマを構築できているとはいいがたい。ひとつのシークエンスにひとつの意味を貼りつけるばかりなので、ひどく記号的である。まるで漫画をひとコマずつ見ているみたいで、シークエンス間のつなぎから流れが失われてしまっている。それに歩をあわせるようにして、演技も全体に大芝居である。艦橋など室内の場面が多く、演出の力量がむしろ露わになってしまった感がある。

脚本は説明が多すぎ。プロット構築において、いちおう伏線は定石どおりに張っているのだが、いずれもちょっと弱い。ストーリーの進め方にもメリハリがない。ヤマト発進の場面などきわめて大事なカタルシスを演出してもらいたいのだが、なんだか、あれよあれよというまに出発してしまう。

というわけで、作品の出来については、案の定というべきか、疑問符がつきまくる結果であった。それでも、まあ、アニメの名作を正面からリメイクに挑戦すること自体は、けっして悪いことではない。こうなったらもう、つぎは『機動戦士ガンダム』の実写版しかあるまい。