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アトラクションの源流を歩く――プラーター公園の観覧車とミュージアム 3/3

プラーター公園にいった話その2のつづき。

人間の形をしたモノ、というのも重要なモチーフである。

これは人体模型。かなり精巧な出来だ。なまめかしくさえある。

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背後からわざわざ内臓を見せたりもする。これも建前や名目はどうあれ、娯楽として受容されたという点が重要だ。現代のロボットやアンドロイドを考えるうえでも欠かせない視点だとおもう。

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こちらはオートマトン(自動人形)。

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アトラクションの源流を歩く――プラーター公園の観覧車とミュージアム 2/3

プラーター公園にいった話その1のつづき。

観覧車のちかくにプラーター・ミュージアムがあった。

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ロビーで、おじさんがおばさんとソファに座って話し込んでいた。そのおじさんがミュージアムの店番だった。ぼくが館内に足を踏み入れようとすると、うしろからあわててやってきて、5ユーロ、と言った。ぶっきらぼうで、英語もあまり解さないようだったのだが(ぼくもそうだけど)、悪い感じのひとではなかった。

展示は個人の収集した資料が中心なのだという。絵葉書、写真、ポスターを中心に、当時つかわれた機械なども展示されていた。

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アトラクションの源流を歩く——プラーター公園の観覧車とミュージアム 1/3

遊園地や遊戯機械(アトラクション)は、テクノロジーと身体が結びついた新たな経験をとおして、身体と知覚を改変・再編成してゆく代表的な場所であった。拙著『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』のなかでも述べたとおり、ぼくはそう考えている。

空間やその背後にあるイデオロギーについては建築史、美術史、社会学などの諸分野で既往の蓄積がかなりあるが、テクノロジーと身体との結びつきやそれらの運動のあり方(日常的実践)に焦点をあわせたような知見は必ずしも多くはない。「アトラクション」概念に見られるようなぼくの問題関心の新規性(それは反面「分かりにくさ」でもあろうが)は、そのあたりにあるだろう。

近代的な意味での遊園地が成立するのは19世紀ヨーロッパ。その最初期の代表的な例がウィーンのプラーター公園である。というわけで、ウィーン滞在中にトラムを乗り継いでプラーターへ行ってみた。

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駅を抜けると、広大な公園の手前の区画が遊園地になっていた。遊園地の入場料は不要で、アトラクションごとに料金がかかるしくみ。

プラーターといえば、映画『第三の男』(1949)である。第二次世界大戦で破壊されたウィーンの街は、米英仏ソの四カ国に分割統治されていた。作品中で象徴的につかわれて有名になったのが、この観覧車だ。

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こうしてみると、日本のそれとは違い、キャビンがかなり大きい。小部屋ほどもあろうかという勢いだ。以前に見たシンガポール・フライヤーのそれほどではないとはいえ、こんなふうに大きなキャビンをもった観覧車は日本ではなかなか見かけない。

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園内にはもうひとつ、新しい観覧車もあった。こちらのキャビンは小ぶりである。

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自民党の憲法改正草案を読んでみた——「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」

参院選を前に、自民党が以前から出している憲法改正草案をあらためて読んでみた。自民党憲法改正推進本部というところのサイトからPDFで見ることができる。http://constitution.jimin.jp/draft/

詳しいことは専門家の解説を探して読んでもらうのがいちばんいい。ただ誰であれ(有権者はもちろん、そうでなくても)これに目を通すことはけっして悪いことではないとおもう。というのも、文章をよく読めば、それを書いたひとたちの頭の中や腹の中がよくわかるからだ。

論点はいろいろあるが、ここではひとつだけとりあげる。これを書いたひとたちが「個人」というものをどう考えているかという点がはっきり示されていることである。

     *

この改正草案を書いたひとたちにとって「個人」はなにかとてもよろしくないものらしい。「個人」という言葉を消して、「人」という言葉に置き換えている。

そして「人」はあくまで「公」あってものだとされている。なにより優先されるのは「公」であり、「人」は「公」の枠組みの中で存在を許されるものだという考え方である。「全体」とか「みんな」の利益のために「人」はある、と位置づけられている。

これってつまり、国民の主権、個人が個人として保障されていなければならないはずの自由を、実質的に国家が制限しようとしているということではないだろうか。

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「偏っていない意見」など存在しない

他人の意見や発言のことを「偏っている」として攻撃・排斥する現象をしばしば目にする。実社会でもネットでも。いまの政権や与党なんかも、自己の政策や立場と異なる意見にたいして「誤解」「偏っている」などと主張するのが好きみたいだ。ジャーナリズムにたいしてむやみやたらに「中立」を押しつけようとする言説もここに含めてよいかもしれない。

しかしながら、それらは「中立」からもっとも遠い態度だといえる。なぜなら、この世の中にそれ自体が「中立」な意見など、そもそもひとつもないからだ。

すべての認識はすべからく主体が拠ってたつ枠組みに依存している。ぼくたちは枠組みなしに世界を認識することはできない。枠組みはつねに限界を孕むものであり、ゆえにすべての認識はあらかじめなんらかの形で「偏っている」。だからこの世の中に「偏っていない」意見や見方は存在しないのだ。

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