映画『幸福のスイッチ』(安田真奈監督)を観た。「幸福」は「しあわせ」と読むらしい。たまたま空いた時間に上映スケジュールが合うという理由で、さしたる事前情報ももたずにテアトル新宿に入ったのだが、これが案外、拾いものだった。
主人公の上野樹里は駆けだしのイラストレーター。だが、生来の一本気な性格と世間知らずゆえ、せっかく就職したデザイン会社で与えられる役割に素直に打ち込めず、上司と衝突して辞表を出したばかりだ。そこへ故郷紀伊和歌山の田辺の妹(中村静香)から手紙が舞い込む。長姉(本上まなみ)が入院した、一カ月だけ家業の電器店を手伝ってほしいという。彼女たちの母はすでに亡い。だが田辺に帰ってみると、入院していたのは父親(沢田研二)だった。儲けは二の次、顧客サービスに尽くすのが身上の沢田は、テレビアンテナの修理中に誤って屋根から転落し、足を骨折したのだ。そもそも上野は、この頑固一徹、家業ばかりで家族をかえりみない父親に反発し、高校卒業後に上京したのだった。家業である小さな電器店は通称「イナデン」。上野は仕方なく、父が入院しているあいだイナデンの留守をあずかることになる。……
跳ねっ返り娘の上野が、頑固で不器用な父親が同時にその誠実な仕事ぶりで地域のひとびとに愛されていることを知り、成長していく。その過程がストーリーの軸だ。起伏に富んだ展開があるわけではない。物語は、それを支える価値観と同様に穏当であり、保守的とさえいえるかもしれない。沢田のような大俳優やほとんどアテではないかとおもわれる役柄の上野も含め、目を見張るような「名演技」がくり広げられるわけではない。心が震えるような美しいショットがあるわけでもない。
だが、突出した特徴が見あたらないことは、この作品にとってはちっとも欠点ではない。わかりやすいハッキリした特徴をもたせないという方法は、現代の日常を生きるひとりの人間、一個の家族にとってのあるひとつの出来事を描くという、この作品の理念に適うものである。
「アトラクションの映画」というトム・ガニングの有名な言葉があるが、映画はその基本的な成り立ちからしてアトラクション(見世物)である。それゆえ映画はしばしばスペクタクル──派手で大がかりな見栄えのする出来事を扱う。なるほどそれは、アトラクションに至るための早道であるのかもしれない。だが、そのことは、道筋がそこに限定されていることを意味してはいない。地味で平凡でとるにたらない田舎の些事であっても、また十分アトラクションたりうる資格を有している。スペクタクルの対極を描きながら、それがアトラクションたりうる。それは映画という仕掛けの不思議な作用のひとつであるといえるだろう。
けれども、ありふれた出来事をありふれた方法で描いたところで、ありふれたものができあがるばかりである。アトラクションにはならない。それを可能にするためには、それなりの視点と方法が必要だ。当たり前のようではあるが、ここが弱いケースは少なくなく、そうしたばあい流れていってしまう方向は、たとえば今年公開の映画だと『かもめ食堂』のような作品に認めることができる。
ありふれた出来事を扱おうとするさいに不可欠なもののひとつは、「精確」なことである。「精確」とは「精密で、たしかなこと」であり、「正しく、たしかなこと」を意味する「正確」とは違う。本作品が佳作であることを土台で担保しているのは、手堅い脚本と演出であり、きっちり105分で仕上げる見切りの良さである。その手つきは、まだ幾分ぎこちないところもあるとはいえ、「精確」なものへと鍛えていける素地はあるといえるのではあるまいか。
「精確」なこと。この言葉をそれとしてぼくが知ったのは、江國香織が庄野潤三の文体について述べた文章だ。庄野潤三は、半世紀にわたって、東京の郊外に暮らす一家の物語を書きつづけている作家だ。その代表作『夕べの雲』を、いずれ安田監督に撮ってもらいたいというのが個人的な希望である。
いちおう念を押しておくが、こんなことを書くのは、『幸福のスイッチ』が庄野潤三と同じく家族を描いているから、という理由によるのではない。そもそも、この作品を「家族の絆」を描いたものとして簡単に片付けてしまえるものかどうか。宣伝文句としてならともかく、実際にはもう少し複雑であるように、ぼくにはおもわれる。
たとえば、町の電器店だ。家族の絆を描くための舞台設定として町の電器店を貼りつけたともいえるが、むしろその逆、町の電器店を描くことが第一義にあり、そのために家族の設定をもってきたという見方もできる。結果的に、「ナショナルのお店」のプロモーション映画になってしまった気配も感じられなくもない。松下電器産業が特別協賛で名を連ね、作品中に登場する電化製品の数々は、冷蔵庫、洗濯乾燥機、プラズマテレビ、餅つき器から電球にいたるまで松下製品のオンパレードである。むろんこうした見方は少々意地悪にすぎるのだが。
じつは町の電器店は、メディア論的には、とっても興味深い存在である。電器店は、八百屋や魚屋なんかと同じく商店街のなかにあって、地域密着型で商売をする個人経営のお店だ。だが、生鮮食料品や日用雑貨を扱う業種とは異なり、その歴史は意外に浅い。1950年代から60年代にかけての高度成長期に登場する。電気冷蔵庫やテレビ受像器など、家庭のなかに電化製品が入り込んでいく時期と重なっている(詳しく知りたいひとは、飯田崇雄「「モノ=商品」としてのテレビジョン」、『放送メディア研究』3号、2005年を参照するとよい)。
町のひとびとにとって、電器店のオヤジとは、テレビコマーシャルと現実の家庭生活とを媒介する伝道師であると同時に、きめ細かい対応をとおしてひとびとを電化製品のある生活に馴化統合させていく教育者でもあった。この「啓蒙」の普及した今日、低価格を売り物にする量販店の跋扈によって町の電器店が危機に直面している状況は皮肉といわねばなるまいが、似たような皮肉の構図は高等教育や人文書の出版産業についても当てはまる。
沢田研二の父親をギブスのとれないまま嵐のなか顧客の家へ走らせたものは、このような、町の電器店をめぐる経済社会的な意味での「成長」の歴史との相剋である。そしてそのようにして歴史とたたかう父の姿を、仕事を同じくするなかで目の当たりにすることが、娘に精神的自立という別の種類の「成長」をもたらす。本作品がもし「家族」の物語であるとしたら、このように多重的な意味においてであるだろう。