初めての参加だった。とくに知り合いもいないまま、いわば飛び込みで参加したのだが、なかなか愉しく、勉強になった。運営にあたった事務局や関係者の方々に感謝したい。
もちろん、すべてオッケーというわけではない。課題も感じられた。全体に、マスメディアに対抗するオルタナティヴという構図で語られる傾向にある。しかし、それって、けっきょくマスメディア中心の20世紀型のメディア編制を前提していることに等しい。むしろ必要なのは、規模の大小をもって中心─周縁の構図に置き換えるのではなく、いずれのメディアも等価に位置づけられるような理論的構図だろう。ただしそれは、実践家のひとたちだけに押しつけられることではなく、研究者もまじえた共同作業でなければなるまい。
いくつもある分科会のうち、3つを聞いた。いずれの参加者も、どういうわけだか大会全体のそれに比して少なかったが、参加者の多寡と内容の良し悪しは必ずしも相関しない。
「デジタル時代こそ、活字メディア=紙媒体が必要だ!」と題されたセッションでは、情報誌を発行する札幌、函館、釧路、仙台のNPOの取り組みが発表された。市民メディアといえば映像系が多いので、紙媒体をとりあげること自体が、なかなかユニークだった。個別の事例も興味深かったが、あいにくその後の討論は展開しきれない印象が残った。「ネットか紙か?」という図式の議論にはまり込んでいってしまったからだ。この手の議論はすでに90年代にさんざんやって、まるっきり不毛であるという教訓を得ている。むしろ重要なのは、媒体(メディア)の移り変わりというより、媒介作用(メディエーション)のあり方だ。ネットか紙かという二項対立図式ではなく、出版(パブリッシュ)するとはどういうことか、わたしたちが通常考える出版をどこまで拡げて考えられるかという挑戦である。
そのようなメディア論的関心から見て印象的だったのは、釧路の事例(「じゅう箱のスミ」)である。とくに、その配付方法だ。もともと新聞に折り込んで3万7000部を発行していたものが、諸事情によりそれが適わなくなった。その代わり、広告主や読者がみずから名乗りでて、いまでは2万部をそうした人海戦術で手配りしているという。これを、非産業的な出版物であるがゆえに物流システムに載せられないことに起因する代替と捉えてはいけない。物質が、具体的な人間の手によって届けられるということに意味が発生することに注目すべきである。そこには不可避に儀式性が立ちあらわれてくるだろう。それが、メディア・コミュニティを形成するのである。
それにしても、こういう場に来て大物ぶるおっさんは、それがいくらありふれた生き物だとはいえ、どうにかならんものか。