映画『クライマーズ・ハイ』

映画『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)を観た。

日航ジャンボ機墜落事故。「そのときあなたは、どこで、だれと何をしていましたか」などと、かつてのニュージャーナリズムみたいな質問をしたくなるひともいるかもしれない。1985年8月12日の夕刻、ぼくは19歳だった。実家にいた。夕食前の時間だった。テレビを見ていた。NHKの定時ニュースのなかだったか、その直後だったか、日航123便がレーダーから消えたという第一報が報じられるのを見た。そのテレビ映像と音声が、ここでもつかわれている(NHKドラマ版でも使用されていたらしいが、ぼくは未見)。

横山秀夫の込み入った秀作をよく消化した脚本は苦心のあとが随所にうかがえる。けっして原作のダイジェストではなく、かといって一部分だけを切りだして膨らましたわけでもない。

とはいえ全体に、堤真一演じる主人公が局面局面でくだす決断を妙に正当づけるような細工が目につく。それが、かれの迷いの深さや、あらゆる方向からプレッシャーのかかるなか、正解のありえない選択をせざるをえない者が相対する現実の酷薄さを見えにくくしている。また映画版では、なぜ主人公が一人遊軍という不自然なポジションに甘んじなければならないのかも、よくわからない。

さらにそのことは、1985年と2007年という二つの時代を交錯させることの意味あいも薄れさせてしまう。最後の20分は、物語の収め方としても凡庸だし、語り口も冗長だ。

結果として、この映画の基調をなす──というより原田作品に共通するというべきかもしれないが──ウエットな自己憐憫と単純な英雄主義とが、必要以上に強調されることになる(一片の批判精神すらみられない、あの『突入せよ!「あさま山荘」事件』を想起するとよい)。

ドラマとして興味深いのは、舞台となる新聞社で、社員どうしが入り乱れてぶつかりあい、そのつど情勢を微妙に変化させてゆく群像劇のほうだ。

必要があろうとなかろうと、やたらにカットを細かくつなぐ手法は、編集でスピード感を演出しようという昨今流行のハリウッド流なのかもしれないが、実際に作品の出来あがりによい効果をあげているかどうかは疑問である。

むしろもっと基本的な問題として、前後関係の混乱させられる場面があった。たとえば、全権デスクの椅子に陣取った堤真一が搭乗者名簿をチェックして、少年の名前を見つけるシーン。前後関係から、じぶんの子どもの名前を見つけた(というふうに原作から改変したのか)と受けとってしまう。実際には、息子と同じ年齢の男の子、ということらしいのだが、そう理解できるのは、だいぶあとになってからである。

物語の鍵のひとつは、1985年当時のメディア状況だ。電電公社が民営化されNTTに変じたばかり。まだ携帯電話はなかった(自動車電話は存在した。全国紙の記者がハイヤーから自動車電話をつかうシーンが登場する)。記者はいつも小銭を持ち歩き、公衆電話や民家の電話を借りて社と連絡をとるのが当たり前だった。電子組版は舞台となる地方紙ではまだ導入されておらず、原稿はペラに鉛筆で手書きだ。

そしてなにより、新聞とテレビという二大マスメディアが、その王様の座をめぐって、せめぎあっていた。いいかえれば、それ以外の媒体によってマスメディアそれ自体が相対化されることなど、想像の範囲に入ってさえいなかった。

職業人としての人生のあり方も、いまとはだいぶ異なっていた。新聞記者といえども、学校を出て小さな組織に入ったらさいご、なんだかんだといいながら、定年までそこで同期・先輩・後輩たちと、ひとつの共同体をなして濃密に過ごす。当時サラリーマン人生とはそういうものだった。本作品もまたその枠組みのなかにある。あの事故から23年。変わってしまった幾多のもののひとつは、そのような規範のあり方なのかもしれない。