今秋、堀田善衞の本が2点刊行された。『上海にて』の復刊、そして『堀田善衛上海日記──滬上天下一九四五』である(いずれも集英社)。それに触発されて読みはじめ、以来続けざまに読んでいる。読むのは電車車中や寝床のなか。至福の時間である。
横浜の神奈川県近代文学館で開催されていた堀田善衞展にも行ってみた。没後10年を期して実現された企画だという。来訪者は年配のひとが大半だが、けっこうにぎわっていた。
ぼくの研究テーマからして、創作ノートやメモ、書斎の配置といった類のことにも関心がある。そうした展示を見るだけでも興味深い。展示の後半はジブリが構想する堀田作品のアニメ化架空企画の展示。おのおの面白いが、両者のあいだにもう少しはっきりした補助線を引いてもらえるとよかったとおもう。
この堀田善衞展、ジブリがらみということも手伝って、この種の催事としてはわりあい宣伝が行き届いていたようにおもうのだが、学生に訊いても知っている者は皆無だった。
かくいうぼく自身、これまで堀田さんの本は読んだことがなかった。
中学や高校時代の教科書にも、たぶん載っていなかった。受験勉強のなかで問題文として読んだことがあったかもしれないが、仮にそうだとしてもこちらにはさっぱり記憶がない。堀田善衞の名は、文学史のごく常識的な知識として知っていたにすぎず、偉いインテリ文学者というイメージが先行し、なんとなくじぶんには縁のないものと決めてかかっていたところがあった。『インドで考えたこと』でなく、椎名誠の『インドでわしも考えた』のほうから入ったクチなのだ。
本を探しはじめておどろいたのが、おもいのほか品切れ書目の多いこと。とくに軽めのエッセイや紀行の類はキビシイ。ぼく自身はそういうものも含めて読んでみたいのだが、一般論としていえば、その種の書物は時間の経過にたいする耐性が相対的に低いというのが常なのかもしれない。
それでも集英社文庫は、主著を中心に、切らさぬよう努力しているようだ。近所の書店の棚には見あたらないものの、大規模書店やネット書店ではある程度手に入る(なお Amazon.co.jp では「善衛」で検索したほうが圧倒的にヒットするが、正しくは「衞」)。その姿勢は版元としてかなり評価されるべきである。だがそれでさえも、ラインナップのすべてが新本で手に入れられるわけではなさそうだ。
堀田善衞に限らない。武田泰淳も大岡昇平も、もうそう簡単に新本では読めない。その現実が、21世紀においてそれら作品の価値の減じていることを意味するのかというと、話はさほどわかりやすくはないと答えねばなるまい。