1964年の名作。スクリーンで観たかった作品のひとつである。デジタル修正を施した版が公開されるというので、入試業務のあいまをみて、さっそくシネセゾンへ出かけていった。
「デジタルリマスター版」なるものが、具体的にどんな処理がなされたものなのかは、まったく知らない。画面をみるかぎり、色彩がきちんと再現されているのが最大の眼目であるように感じられる。色彩設計こそがこの作品の肝であるならば、この機会にぜひ劇場の大スクリーンで観ておきたい。ただし、プロジェクタによる上映である旨の断り書きが劇場内にあったところをみると、フィルムではないのだろう。
カトリーヌ・ドヌーヴが美しいとか、おしゃれなファッションがどうしたとか、ミシェル・ルグランの音楽がロマンティックだとか、悲恋の物語がどうだとか、そういう昔の洋画雑誌みたいな語られ方は、それはそれでかまわないが、まあどうでもよい話だ。
ミュージカル映画の系譜のなかでは、黄金期が終わってしまったあとのミュージカル映画が、オペラ的なあり方のほうへ接近というか回帰してゆくというひとつの方向性をはっきり示してみせた画期に位置づけられるだろう。もっともそれは結果的にそういえるのであって、ジャック・ドゥミもルグランも黄金期のハリウッド・ミュージカルに十分かつ明瞭に敬意を払っている。本作品で採用される「傘」のモティーフの背後に、『雨に唄えば』(1952年)からのインスパイアをみるのは自然だろう。
今回興味深かったのは、その雨傘。雨傘という形象のつかわれ方である。
傘が傘として使用されている状態、つまり開かれた傘があらわれるのは、ほとんどオープニングのタイトルバックだけだ。雨という気象が強調されるのも、やはり冒頭だけ。雨に濡れたシェルブールの街をカメラは何度もとらえ、それがシェルブールの街を印象づけるのだが、たいていは雨上がりであったり、雨の降りはじめといったようすであって、雨傘が使用されるような場面はない。
しかも、雨に始まるこの映画は、雪が烈しく降り積もる場面で閉じられる。そこで必要とされるのはフード付きの防寒着であり、傘ではない。「雨傘」が謳われるこの作品の画面において雨傘は、ちょうど主人公が物語中盤でそうであるように、ほとんど不在である。
そういえば、『雨に唄えば』のジーン・ケリーもまた、雨降りの夜中、ハリウッドの街路で大はしゃぎしたあと、手にしていた黒い蝙蝠傘を通行人にあげてしまったのだった。そのジーン・ケリーは、本作品の3年後に撮られる『ロシュフォールの恋人たち』に重要な役どころで登場する。この作品もやはりデジタルリマスター版が公開されている。来週はこちらを観にいくつもり。