ここ数年ネットサービスはユーザー生成コンテンツへ著しく傾斜しつづけてきた。ユーザー生成コンテンツとは掲示板やらSNSやらブログやらネットゲームやらといった、ユーザー自身の活動が直接「コンテンツ」(空疎な言葉である)となって、それにコメントを付加するなどして「つながり」(これも空疎な言葉である)を連鎖させてゆくようなタイプのメディアサービスのことをいう。
さらにここに来て、モバイル環境の整備やスマートフォンの普及も手伝って、よりリアルタイムなやりとりに焦点があてられる傾向が顕著になってきている。ツイッターなどがその典型である。その時どきで思いついた短いフレーズを始終ネットに書き込みつづけ、それにべつの書き込みが連鎖してゆくわけだ。
ユーザーの立場からすれば、じぶんたちがいろいろなひとに「つなが」っていることを確認できるし、それなりに新しい出会いや発見もあることはある。そうしたサービスが登場する以前には、たしかに事実上あまねく実現することが困難だった現象である。その意味ではたしかに有為であり、これが多くの可能性を潜在させていることを否定する理由はない。
しかし同時にそれがあくまで資本によって提供されている商用サービスにすぎず、もう一面においてわたしたち自身がユーザーに仕立てあげられ「やらされている」ものでもあるという事実のほうは、しばしば忘れられがちだ。とくに本来はもっともそうした事柄に敏感であるべきIT系の各種メディア言説においては。
ユーザー生成コンテンツのサービスの渦中において、わたしたちは、マイミクの多さを「つながり」の濃度として誇示しなければならなかったり、ツイッターのフォロー数の増減にやきもきしたり、四六時中つぶやきやらコメントやらをチェックしたり書き込んだりして過ごしている。何かあれば、あるいは何もなくとも、とにかくチェックや書き込みをしていなければならない。べつに誰かにあからさまに強要されるわけでもないが、そうしないと落ち着かなくなる。客観的にみれば、これはもう立派な依存状態であろう。
そうした状態を断続的にではなく常時ユーザーにもたらすような仕掛けが、資本のいう「リアルタイム」である。ということは、ユーザー生成コンテンツ・サービスをリアルタイムで提供することとは、片時たりともそこから離さないようにして、ユーザーの依存状態をよりいっそう徹底し、中毒化させることを意味している。
リアルタイムとは、始まりと終わりをもつような性質のものではない。そうではなく、あらゆる瞬間がそれぞれリアルタイムなのである。したがって、リアルタイムを追いかけ続けるという現象は、わたしたち自身によって経験される「時間」という概念を大きく変容させうる。わたしたちが通常そう考えているような、流れてゆくべきものとしての「時間」という概念を無効にすることを意味しているからだ。あらゆる瞬間がリアルタイムであるのだから、そこに棲むこととは、つねに現在だけが一枚ぺらりと漂っているような、現在が永遠であり永遠が現在であるような、つまりは無時間的な世界に沈殿してゆくことにほかならない。
もちろん物理法則に支配された実世界においては時間は経過しているわけだから、そうした無時間的世界はいつか破綻するにちがいない。思いつくことを思いついたなりにただちに(リアルタイムに)ツイッターにあげることは、それによってさまざまなコメントやらフォローやらを誘発して思いもかけない「つながり」に、それこそ「つなが」ってゆくこともあるだろう。それはそれで愉しいと感じられるようなことであるかもしれない。
けれどもそうして得られる「つながり」や愉しさと引き換えに、わたしたちは、「わたし」のなかにあらわれた小さなひとつの感覚を捕捉し、それと粘り強く向きあってゆくための契機を失いかねないということも覚えておいたほうがよい。その過程は必ずしも心地よいものではないが、そうしないかぎり「わたし」のなかの「内圧」はけっして高まってゆくことはない。「内圧」の高まりがなければ、何かを表現するものとしての「わたし」はその根拠を失ってしまうだろう。
ユーザー生成コンテンツ・サービスにおいては、コンテンツの創造者を特定の主体に帰することを原理的に要請していないので、その立場からすれば「内圧」など邪魔なだけだ。いかなる書き込みであれ、それは本質的に固有名とは無縁の位置にある。その点において、ユーザー生成コンテンツは伝統的なメディアが構築してきた表現形態と対峙する。
しかし少なくともわたしにとって、ものを考え書くことは、あくまで「わたし」を根拠におこなうことでしか成立しない性質の営みである。したがって、そのように始終つぶやきを垂れ流すことは、たとえ気持ちのうえでいくらか「楽」になるのだとしても、せっかく「内圧」の高まりをもたらすかもしれない機会をみすみす「ガス抜き」して逸してしまう自棄的な行為であるように映る。
いかにも時代遅れの古い考え方だといわれれば、なるほど、そうかもしれない。もしそう嗤われるようなことがあれば、わたしはよろこんで「古い」人間の側に立つことを選ぶだろう。