「18解禁」

着任2年目になれば授業や校務の負担はだいぶ軽くなる──といわれていたのだが、ぼくのばあいはどうもその法則はあてはまらないようだ。授業期間が始まったとたん、昨年以上の「三輪車操業」状態である。授業準備は大変とはいえ、それでも学生と接すること自体は、端的にいって愉しい。授業をうまくデザインすることができれば──ぼくはまだまだ試行錯誤の段階なのだが──、かれらなりの仕方で参加し、学んでゆく。その過程でかれらが見せる、自身の言葉や身ぶりは、ひとりひとりなかなかユニークであり、むしろ教員のほうが励まされていると感じる瞬間さえ、ある。

そうこうしているうちに、いつのまにか国会では、国民投票法なる法案がするりと可決されてしまった。小泉政権も相当アレだったが、安倍政権は、なにか底の抜けたバケツみたいである。反知性主義がとうとう骨の髄にまで達した、という状態なのだろう──などというと、日本の政治家に知性などあるものかというツッコミが速攻でなされるかもしれない。その指摘は、たしかにもっともだ。だが知性とは一種類に限られるわけではない。さまざまな知性があり、そのひとつとして政治家的知性というものもあるはずだ。たとえそれを持ちあわせいなくても、せめてあるフリくらいはするべきなのだが、そもそも知性になんら敬意を払わないのだから、どうしようもない。

報道によれば、国民投票法は憲法──とりわけ9条改正に向けた布石だという。白票の取扱い方などといった技術的な問題もさることながら、議論や運動を封じ、いったん国民投票に持ち込みさえすれば、為政者側に有利な結果に導きやすい内容だ。なるほど、たしかに憲法改正──むしろ「改悪」というべきなのだろうが──が目的なのだろうという気がする。

なぜそうまでして憲法を変えたがるのか、ぼくにはさっぱり理解できない。ただ、はっきり示されていることがある。それは、この法案をこしらえたり支持したりするひとびとが、こと国民投票に限っては、いまの若年層に大いに「期待」しているということだ。

政治家や官僚とよばれるひとびとの大半には、ふだんから十代後半(から二十代前半にかけて)の若年層のことを──一部の「エリート層」を例外とすれば──真剣に顧みている形跡はほとんどない(オヤジの居酒屋談義としかいいようのない「教育再生会議」を見よ)。にもかかわらず、この法律にかんしてだけは、端から態度が違う。さしたる法的合理性があるともおもえないのに、通常20歳以上に認められている投票権を18歳以上に引き下げることに、絶大なる熱意を発揮してきた。昔なつかしい日活ポルノは18歳未満入場お断り、これを略して「18禁」と称した。国民投票法のばあいはその逆、「18解禁」である。

この「18解禁」には、当然相応の理由があるはずだ。それが何か、ぼくは知らない。推測するに、おそらく例のプチ・ナショナリズムではあるまいか。若年層には、こうした考え方に共感をいだく素地は想像以上に浸透している。こうした層に向けて、わかりやすい惹句の反復と、一見威勢のいいパフォーマンスをマスメディアから注入すれば、コロッと改憲に賛成票を投じるに違いない──そんな目論見(20世紀的メディア観にもとづく)がありありと透けて見える。

「18解禁」推進の背景にあるのは、いまの若年層を、歴史や政治や社会にたいする認識力と思考力に欠けた莫迦であるとして切り捨てる見方である。だからこそ、ある種のひとびとにとって若年層は「都合のいい連中」なのであり、それゆえに徹底的に利用し尽くそうというわけだ。甘言でもって若年層に改憲賛成票を投じさせようとする者たちは、つぎにはその血までをも差しだすように要求しはじめることだろう。

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