クリスマスは終わった・会長人事

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ラジオ番組は、おかげさまでぶじに終えられた。小林克也さんのDJは、間近で見るとさらにすばらしかった。その克也さんにお話をうかがうという光栄に浴したぼくの初ラジオ出演は、これ以上なく恵まれたものだったといえるだろう。克也さんはずいぶんサポーティヴに接してくださったし、スタッフのみなさんにも支えていただいた。ヨタヨタとではあれ、役割を果たすことができたのであれば、うれしい。誤算といえば、せっかくトナカイのかぶり物を用意していったにもかかわらず、モニタ用のヘッドホンができないため、かぶることができなかったこと。

出番以外はずっと副調整室にいた。リスナーのみなさんからつぎつぎとリクエストとメッセージが届く。そのなかから曲を選ぶのは克也さんだ。あいまに「東京クリスマス・ストーリー」という小話を朗読する。つづいて曲が流れる。おもわず「そうくるか!」とスタッフも唸る。DJって、編集者なのだ。スタッフは音楽とラジオが好きなひとたちばかりで、ラジオのこちら側と向こう側が四つに組んでひとつの番組をつくりあげているという手触り感がある。とりまく状況はご多分に漏れず厳しいけれど、やっぱりラジオはいいなあ。

──といっていたら、NHKの次期会長が決定したと発表があった。新しく会長になる方について、ぼくは報道されている以上のことは知らないので、どうこう言うつもりも、その資格もない。とにかく、よい方向へすすむことを願っている。

ぼくが理解に苦しんだのは、会長選考にあたっての経営委員会の方向性だ。といっても、委員会内部のゴタゴタのことではない。選考の前提にあるはずの、いまNHKのトップに必要なのはどんな人材なのかという考え方の枠組みのことである。

候補にあげられたと報じられた人材は、ほぼすべて財界関係者だった。一方で、ジャーナリスト──ありていにいえば大手新聞社や通信社のOBのこと──を推す声もあったようだ。しかし、コストカッターであれマスコミ業界の成功者であれ、それがいまNHKのトップに必要な人材といえるのだろうか?

いまNHKが直面している本質的な課題とは、デジタル化とグローバル化に関係したものだ。これまでの公共放送は、ナショナルに閉じた枠組みを前提していればよかった。公共といえば国民のことであり、放送といえば日本という国家の主権のおよぶ範囲内全域にたいする一斉送信を意味した。それらは自明だった。

けれどもグローバルなデジタル・メディア時代のなかで、この二つの自明性は根本から揺さぶられ、変容を迫られている。つまり「公共」も「放送」も、その意味する内容が以前とは異なり、簡単に言い表せるようなものではなくなっているのだ。そのなかで、はたしてどのようにして「公共」な「放送」が可能であり、必要なのか。そうした理念を再構築して示すこと、別言すれば、これからの「公共放送」のヴィジョンを示すことのできる力こそが、今日の公共放送のトップに要求される最大の資質にほかならない。

まあ厳しくいえば、そんな人材は皆無に近いわけだが、少なくともそうしたヴィジョンを再構築していくことを最優先にしてためらわない見識の持主でなければならないはずだ。(ただしそのヴィジョンは、上から押しつけるのではなく、公共放送にかかわるすべてのひとびとによってつくりげられていくべきものでなければならない。)

むろん組織内の倫理や受信料や番組の質の向上といった課題は大切である。それら現実に生じるさまざまな課題は、だが、たんに巨大機構ゆえに生じてしまうのではない。そもそも21世紀における公共放送のヴィジョンへの関心がすっぽり欠落していることに起因している。ヴィジョンの共有されない組織はまちがいなく疲弊し、腐敗する。組織の存続それ自体を自己目的化するほかないからだ。

その意味では、会長人事の劈頭から採られていた、経済界からの登用というスキーム自体が、選ぶ側つまり経営委員会の情勢把握と世界認識の限界を露呈していたといわざるをえない。それが結果として、人事の選択肢そのものを狭めてしまったようにおもわれる。

(071227若干加筆)

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