映画『沈まぬ太陽』

いかにも大作である。あの長大な原作をよくまあこの時間内に収めたものだと、まずはプロットワークを誉めたい。御巣鷹編を中心に、アフリカ編と会長室編とをうまく組みあわせ、一本の筋を構築することに成功している。

とはいえ難点も少なくない。ストーリーラインはそれなりの起伏を示すものの、全体に善と悪の二項対立を強調しすぎており、単純で平板な印象は否めない。悪者役はいかにも悪者ですという顔をし、主人公側にたつ役の人物はいかにも思慮にとんだ賢人という表情をしている。そのわかりやすさは、NHKの朝の連続テレビ小説クラスといってよいほどだ。そのなかで三浦友和だけが、その両面をもつという設定の重要な人物を淡々と演じきっていて見応えがある。

後半には代議士や内閣内での政治的駆け引きも絡んでくるので、いかにも政治がらみの作品であるかのような印象をうけるかもしれないが、それは目くらましである。この作品において政治性はきれいに脱色されている。たぶんそのことが、この作品が内部にマグマのように孕んでいなければならない「怒り」のようなエネルギーを骨抜きにしてしまっている。

たとえば冒頭部に描かれるような50-60年代の組合活動の描かれ方をみればよい。その団交での出来事が主人公渡辺謙(例によって熱演である)の30年間にもおよぶ社内いじめの直接の発端となるのだが、当時の労働組合をとらえるうえで政治色を拭ってしまったら、まるで空疎なものになってしまうだろう。ところがここではそうなってしまっている。渡辺謙がやたらにくりかえす「仲間のため」「会社をよくするため」という言葉は、常套句として嘘ではないしても、ただ額面どおりにうけとるのだとしたら、あまりに素朴にすぎるといわねばなるまい。

それなのに本作品は、観る者をわざわざその「素朴」な理解へ誘導しようとする。おそらく確信犯なのだろう。ここで共産党の影などからめてしまえば、主人公の選択と行動に少々別の意味を与えてしまいかねないからだ。拭いとられた政治色の残滓が認められるのは、わずかに「アカ」という言葉くらいである。むろんたんなるお印としてしかつかわれているにすぎない。

こうして政治性を殺菌して無害化してしまった結果、あの時代なぜ会社側があれほどまでに組合活動を危険視したのかがうまく理解できなくなる。そのため本作品はそれをたんに個人的な資質の問題という水準に落としてしまうのだ。こうして「誤解や無理解のなかでも矜持を失わず信念を貫く男の生きざまを描く」という、なんとも凡庸なお話が語られることになる。

こうなると、主人公を一貫して支えてきた「信念」なるものの根拠が必要となる。それが木に棒を接ぐように唐突にもちだされる交通機関の「安心安全」という主張である。これがまあ、JALの実質的な経営破綻がどうやっても隠しきれなくなりつつある2009年秋のタイミングで語られると、それなりにリアリティをもたないわけでもないから、偶然とは怖ろしい。

もちろん作中に登場する航空会社「国民航空」は架空である旨の注記はなされている。けれどもそれは誰がみても「日本航空」であり、げんに物語上で大きな役割をはたすジャンボ機123便墜落事故は明らかに1985年夏の日航の事故をモデルにしている、というよりそれそのままである。そして同じ事故を扱った昨夏公開の『クライマーズ・ハイ』(映画版のほう)とも奇妙に共振しているようだ。両作品とも阪神タイガースの帽子をかぶった少年旅行者が登場するのだが、その子役俳優がどちらも同じであるような気がしてならないのだ(ただし未確認です)。

『クライマーズ・ハイ』と『沈まぬ太陽』のあいだには、『ハッピーフライト』が公開されている。それは赤面するほどあからさまな航空業界賛歌であったが、これに全面協力したのは全日空であった。「軽妙なコメディ」であるこの作品と「社会派」の前出二作品との対照性は、製作サイドの意図がどうであれ、全日空とJALとの関係を、あたかも勝者と敗者のそれであるかのように表象してしまっているだろう。それはそれで、どうなのよ? とやっぱり言いたくはなる。