予科練平和記念館

ディフェンダーが納車されてから半月。ようやく馴らし(車ではなくぼくのほうの)に出かけた。日帰りで霞ヶ浦まで行き、湖畔をひとまわりした。その帰りに立ち寄ったのが、予科練平和記念館である。写真でディフェンダーの後方にうつっている金属っぽい外観の四角い低層の建物が、それだ。今年2月に開館したばかりだという。

この記念館は阿見町の霞ヶ浦湖畔にある。戦前、旧海軍の土浦航空隊があった場所だ。1939年に、横須賀からここへ予科練が移ってきた。予科練とは、旧海軍の航空機搭乗員養成課程のことだ。夏に見学に行った旧海軍兵学校が士官を養成する施設だったのにたいして、予科練を修了した者は下士官として前線へ送られていった。ようするに、士官の命令の下で実際にたたかわなければならなかったひとたちである。

予科練の概要と、その歴史的変遷がコンパクトにまとめられている。例によって、解説や年表が添えられているので、見学者はそう実感しないかもしれないが、展示品は、いわゆる国宝みたいな形での価値があるようなものではなく、当時の教科書や備品、日記などといった細々したものだけである。数十年前にここに展開されたひとつの生活のあり方を、わずかばかりの痕跡に説明文と再現映像を付加して示そうというわけだ。

目を惹くのが、土門拳が撮ったという予科練の写真。こんな写真があるとは不勉強にして知らなかった。東宝の戦意昂揚映画『決戦の大空へ』の一部が館内で流されている。

渡辺邦男がこの映画を撮った1943年ごろには戦局は悪化の一途をたどり、予科練の修了者の消耗も烈しくなった。1944年、フィリピンでの最初の特攻作戦も、その主体は予科練出身者がにない、以後は航空特攻のみならず、海上や海中などさまざまな特攻作戦の要員にあてられるようになった。

展示の最終部はその特攻の犠牲者を扱っており、数分間の映像作品の上映もされている。特攻の死を無駄にしてはいけない、現在の反映はかれらの犠牲の上に成り立っている、という、この65年間反復されてきた主張がここでもまたくりかえされている。

この種の物言いは、典型的な国民国家の言説パターンであり、一見死者にたいして敬意を払っているように見えて、そのじつ、二重にかれらの生と死を奪っている。すなわち、ひとつはその生を軍人として動員したことであり、ふたつめは、その死を国民国家の神話へ回収してゆくことである。

展示を案内する係員の女性たち(なぜか全員女性だった)の、しゃべり方やふるまい方が、気になって仕方ない。どこかで見たことがあるなと、しばらく考えて思いあたった。葬祭会館の係員のそれとそっくりなのだ。そう気づいたら、さらに暗然とした気持ちになってしまった。

けれども、もっともすごかったのは、じつはここではなかった。隣接する陸自の基地内に、もうひとつ、予科練の記念館がある。雄翔館と名づけられたその施設は、記念館から案内板にしたがって歩いて3分。行ってみると、おどろいた。

四角い古い建物で、説明板によると航空母艦を模した形らしい。正面のガラス戸を入る。とくに常駐の管理者はいない。部屋は奥に細長い。その両脇と最奥の壁面が、びっしりと、遺影や遺品で埋め尽くされている。何人分あるのだろう。隙間もなく、少しずつ折り重なりながら貼られている。

いずれも予科練出身の戦没者らしい。出身地、予科練の期、それぞれ亡くなった日時や場所が記されている。墜落して放置されていた零戦のプロペラが一本だけ切りとられて飾ってある。戦後に生き残った予科練出身者がどこかで入手したものらしい。戦時中につかわれた航空機や艦船のプラモデルもならべられている。そういうものが、青白い蛍光灯に照らされながら、この部屋の壁という壁を覆い尽くしているのだ。

何かを説明するため、という展示の仕方ではない。強いていえば、鎮魂とか慰霊ということになろう。でもそのような、できあがったきれいな言葉で語るのがためらわれるような、鬼気迫るものがある。遺影や遺品やプラモデルたちは、それぞれがそれぞれの口調で口々に、見る者にこう問うのである。おれたちはなぜこんなふうにして死なねばならなかったのか?

かれらの問いにたいして、保守派ならば「祖国」「正義」「家族」のためだと答えるだろうし、左派であれば「意味はない」などと切り捨てるのかもしれない。けれども、いずれもかれらの死にたいして、わかりやすいひと言で意味づけをして済ませようとしているという点において、共通しているようにおもわれる。なぜならそのような態度は、かれらの死に適当なラベルを貼ったうえでそれ以上考えることを止めてしまうことだからだ。つまり、かれらの死に向きあうことを避け、これを忘却しようとする姿勢だということである。

この部屋に渦巻いているのは、そうされてしまうことを根本的に拒絶するような、なんとも複雑で重たく、陰鬱とした「念」である。それは、江田島ではけっして感じられなかった種類のものだった。

雄翔館を出た。すぐ脇に山本五十六の全身像がたち、フェンスの向こうには陸自の主要な戦闘車両(90式、74式、61式の各戦車や自走砲など、ここには武器学校があるので教育用なのだろう)がこちらを向いて並んでいた。その光景がまた、よりいっそう割り切れない気持ちにさせるのだった。