これもひと月以上前の話なのだが、奇妙な葉書が届いた。
差出人の名前はない。残り物なのだろうか、年賀状にパソコンで印刷してある。宛名はぼくの名前になっているものの、裏をかして文面をみると、ぼくの所属する某学会──学術学会です、念のため──の「会員 各位」と記してある。同じ文面の葉書が学会の会員全員に送られているのだろうか。
文面も奇妙である。「当方は」と発信者のことを示すものと推測される言葉で始められている。「当方は」最近刊行されたというある本の書名があげられて、その著者であるのだという。そして、つぎのような誤りをしたのだといって、詫びている。
この度、同著の記述において、実際には述べられていない事柄を、誤って引用してしまうと共に、著者のお名前の字を誤記、また、出版社に対しましては、実際には刊行されていない書籍名の記載をしてしまいました。
まことに奇妙な内容である。意味がよくわからず、何度も読みかえしてしまった。それでもいまいちよくわからない。
ここで誤りとされている内容とは、にわかに信じがたいような誤りである。著者名の誤記なら(あってはならぬこととはいえ)いざしらず、「実際には述べられていない事柄」をどう誤れば引用できるのか、「実際には刊行されていない書籍名」をどう誤れば記載できるのか。
当該書籍を見ていないので、なんともいえないのだが、ふつうに考えれば、アカデミックなトレーニングをまったく欠いているひとの行状といわねばなるまい。あるいは、考えられないような倫理意識の欠如か。いずれにせよ、うちの学生たちの卒論であったとしても、まちがっても生じえないようなお粗末な話である。それでも学会員である以上、いちおう「当方」は研究者を自認しているのだろう。
さらに意味不明なのは、この「当方」である。「当方」と文面には書かれているが、その「当方」が誰をさすかは、どこにも書いていない。この葉書が誰の責任によって書かれ、投函されたのかはまったく明記されていない。なぜか書籍の版元の連絡先は記してありはするが、文面から推察するにそれが「当方」ではあるまい。お詫び状に、詫びている当人の名前がないというのは、まことに奇怪なことである。
したがってこの葉書は、内容ではなくメディア論的な物質性の次元において、お詫びしている内容、もしくはそこに至る経緯について、差出人である「当方」に何か含むところがあるような印象を与えるものとなっている。詫びている文面の内容を、差出人の名前が不在という事実が拒否しているように受けとめられてしまうのだ。事実がどうだかは知らないけれど。
もちろんこのご時勢、ネットで調べれば、当該書籍の著者名などすぐにわかることではあるのだが(じっさい調べました)。
ぼくがもしパトリシア・ハイスミスとかディック・フランシスだったなら、ここからいろんな想像を膨らまして、短編小説の一本くらい書いてしまっていたにちがいない。