卒業おめでとう(2/2)

夕方からは、卒業生の主催による謝恩会が、けっきょく予定どおりにひらかれることになった。

このような状況下では自粛すべきではないかという意見もあったかもしれない。じっさい実行委員の学生たちも中止するかどうかずいぶん悩んだのだそうだ。最終的に実施と決めたかれらの決定が、外部からみて正しいといえるのかどうか、ぼくにはわからない。だが、かれらはすでに、かれら自身にはなんら責任のないところで、公式に卒業を祝ってもらう機会を奪われている。かれらが、もろもろ考えた末それでも謝恩会を開きたいと決めたのなら、それを支持してあげたいとおもった。謝恩会には、ぼくたち教員は卒業生に招待される恰好になっている。先生方はみな参加されていた。やはり卒業生たちの気持ちを汲もうと考えられたのだろう。

夕方から予測不能な大規模停電がおこるかもしれないと経産省が警告を発するなか、会場へ向かった。街をゆくひとや車の数は、心なしか少ない。

会場は大学からさほど離れていない場所にあった。一歩足を踏み入れると、そこには『千と千尋の神隠し』の湯屋みたいな巨大な空間がひろがっていた。パリのグランパレもかくやといわんばかりのガラスの大屋根の下に、茅葺きの屋根の家並みが再現されている。池があり、橋がかかり、植え込みがしつらえられている。桜の飾りつけが華やかだ。

ゴージャスである。けれども、雰囲気がどうも妙だ。節電のためだろう、照明が落とされている。そして、ほとんど人影がなく、しーんとしている。たんに閑散としてさびしいというのではない。あるべきはずの人影が不在という、喪失感に似た感覚である。

確かめたわけではないけれど、この日予定されていた会合の多くがキャンセルされてしまったのではないか。こういう状況下なので自粛の動きがでるのはやむをえないのかもしれないが、こんなことが続けば経済はたちゆくまい。すでに通常編成にもどった民放テレビ局でも、一般企業は非難をおそれて自社のCMを流すのを避けているとも聞く(だからしょっちゅうオシム元監督の姿を目にするわけだ)。こういう流れが被災地の支援や救援に結びつくわけではないだろうに。

しかし、そのときぼくが感じたのは、もう少し別のことだ。その会場の閑散としたようすは、まるで休園後のテーマパークに迷い込んでしまったかのような印象を与えるものだった。端的にいって、それは不気味としかいいようがなかったのである。

その不気味さとは何か。

それは、先日来、剝きだしとなっている現実が発する不気味さそのものだろう。それは、しばしば素朴にいわれるように、災害や事故がわたしたちの「あたりまえの日常」を脅かすから不気味、なのではない。そうではなく、それは世界の相貌そのものが剝きだしになったことによって、そこから漏れだしてくる不気味さ、なのだ。

裏がえしていえば、このような不気味さを発する世界を塗り込めるようにして封印したうえで成り立っているのが、わたしたちの日常である。もはや、ふだん「あたりまえ」とおもうことさえしないような日々。そして、世界の相貌を塗り込めて隠蔽することで、それをあたかも「あたりまえ」で「自然」であるかのように感じさせる仕掛けに、ぼくは「メディア」を見ている。

卒業してゆく者たちがしなければならないのは、この世界の様相の不気味さから目を逸らすことではなく、正面から見つめることである。そうすることによって初めて、ひとりひとりが、いま何ができ、何をするべきかを見きわめることができる。そうしたのなら、焦ったり、惑わされたりすることなく、こつこつと取り組んでいけばいい。そのことだけが、この世界を明るくすることへつながっているだろう。そして、かれらになら、それができるにちがいない。

謝恩会ではしゃぐ学生たちの姿を見つめながら、そんなことを考えていた。

卒業、おめでとう。

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