世間はゴールデンウィークである。例によって、ぼくにはほとんど縁がない。あいかわらず部屋にこもって論文を書いている。それ以外のことまで、なかなか手がまわらない。
いま取り組んでいるのは、メディア論において〈実践〉とは何か、というような主題だ。
これもここ7-8年、何度もチャレンジしながら、なかなかちゃんと書けなかった難物である。〈実践〉といえば、なにしろ古代ギリシア以来、広範な領域で蓄積がある。正面から向かっていっても、とうていぼくのかなう相手ではない。あくまで「メディア」という観点に沿って論じようとしている。
文献をこつこつ読み、考えを練ってまとめていくという地味な作業をつづけているわけだが、テクストはどれもこれも難しく、一度読んだくらいではよくわからない。書けば書いたで、ますます勉強不足が露呈し、前に読んだはずの文献を読みなおしたりしなければならず、ますます停滞する。完全にデフレ・スパイラルに陥っている。
そんなことくらいもっと早い段階で気づいておけよと自分ツッコミを入れたくもなる。しかし、わからない点や足りない点に気がつくのは、やはり書いたからだ。ただ頭のなかだけでいろいろ考えているだけでは、ある一定のレベルから先にはなかなか思考が深まっていってくれない。モーツァルトのような天才ならいざ知らず、ふつうの人間にとっては、とにかくまず書いてみるということが大切なのだということを、あらためて思う。
ところで、こんなふうに書くと、いかにも折り目正しい文系の研究者みたいに見えるかもしれないが、それはポーズである。実際の研究者的出自はまるで折り目正しくない。きちんとした体系をきちんと勉強してきちんと解説するというような、折り目正しい「キチンと系」にはあまり向いていない。
むしろ、関心や疑問がまずあって、そこに問いをたてて取り組むために、手当たりしだいにいろんなものにぶつかっていくというタイプである。これまでの仕事もそうだし、いま取り組んでいることもそうだ。まあ、そういう文科系の研究者が隅っこのほうにいてもいいのではないか、と開きなおることにしている。
先週は、ゼミの卒業生の個展を見にいってきた。子どものときから絵を描いてきた、描くのは「嘔吐」なのだと、サルトルみたいなことをいう(元)学生である(たぶん当人はサルトルを読んでいないと思うけど)。卒業したあともやはり絵を描きたいといって、絵画教室の手伝いやアルバイトをしながら、こつこつと描きつづけている。こう表現すると「信じた道を突き進む」といった剛直さが想像されるかもしれないが、それとは対極的である。いろいろと悩み、ダッチロールをくりかえしながら、それでも描きたいというのである。ぼくはそれも立派な姿勢だとおもう。
ぼくもまた、とにかく論文を書きつづけていきたい。──そんな話をときどき、ちらっと「散歩の思考」やツイートで触れるのは、そうすることで、じぶん自身に言い聞かせているのです。もちろん今回も。
まずは当面の難物をなんとかしてしまいたい。