付箋とブリコラージュ的発想

この記事が公開されるころにはぶじに終了しているはずなのだが、先週の木曜から今日まで、芸術メディア系列の同僚である岡本先生・古川先生と一緒に、3年生を主たる対象とした集中講義(芸術メディア論特別演習)をおこなっていた。

「授業」といっても中身はワークショップだ。受講した3年生たちがどのように課題に取り組んだかは、秋にはウェブにまとめられ、公開される予定である。

ここで記しておきたいのは、運営手伝いとして参加している4年生のことだ。

「手伝い」とはいえ実務的な事柄の大半はかれらの担当である。ぼくがあれこれ細かく指図しているようにおもわれることがあるが、それはまったくちがう。そんなことをしなくても、学生たちがじぶんたちで必要なことを考えだし、どんどん準備をすすめてくれる。例年そうなのだ。

たとえば、これはかれらが事前に作成した、当日の全体の動きをまとめた表の一部だ。こういう書類をつくりなさいとぼくが指示したわけではない。かれらが必要だと判断し、様式から中身までじぶんたちで考え、つくったものだ。

もちろん初めからこんなふうに動けるわけではない。最初は、ごく簡単なメモさえ、ろくにつくることのできない状態である。それが準備を重ねるなかで急速に変化してゆくのだ。おかげでぼくはワークショップの進行とファシリテーションに専念することができる。

今年かれらは新たな方法を考案した。この写真にうつっているような、付箋式の一覧表である。

授業では、受講している3年生たちがグループにわかれてディスカッションをすすめるのだが、その経過を付箋で示すのが、この一覧表だ。4年生たちが手分けしてグループに貼りつき、話しあいのようすを付箋にメモしてくる。バックヤードに帰ってくると、それを時間順にこの紙につぎつぎ貼ってゆく。これによってスタッフは、グループごとの議論の進捗状況を一目瞭然に把握することができる。

この付箋式一覧表に、ぼくはすっかり感心させられてしまった。ディスカッションのようすを一望的に把握し、相互参照を可能にするという機能面だけではない。これを学生たちが自力で考えだしたということがすばらしい(大学院生〈まゆゆ〉のゼミブログ記事を参照)。

下敷きはあった。たまたま授業準備に入る前の時期、テクストの読解をしたりアイディアを整理したりするさいに付箋を活用するといいよ、という話をゼミでしたことがあったからだ。おそらくはそれが発想のタネになったのだろう。

けれども、ぼくが教えたのはそこまで。その付箋活用法から、今回の付箋式一覧表へと、ダイレクトかつ自然にたどり着くことができるわけではない。前者から後者にいたるには、なんらかの思考の跳躍、いいかえれば、ありあわせの知識を組みあわせて別のものを生みだすようなブリコラージュ的発想が不可欠だ。

その跳躍は、教えてもらったとおりに運用すればいいとか、わからなければ教えてもらえばいいというような態度でいては、けっして跳ぶことができないものだ。今回かれらが付箋式一覧表という着想を得ることができたのは、そうした制度化した思考の縛りから抜けだして考えることができたからである。

物事を考えてゆくうえで、ブリコラージュ的な発想はきわめて重要だ。(そもそも付箋の活用は、それを得やすくするための手立てのひとつという側面を含んでいる。)付箋式一覧表を考案し、それをみごとに使いこなした学生たちは、その成長ぶりの一端をみずから実践的に示していた。それがぼくにはうれしかった。