しばらく前のことだが、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を観た。
おもしろいなとおもったのは、登場する人間たちがみな過ちを犯すことである。
広告のコピーでは「姫の犯した罰と罪」ということになっているが、罪を犯すのは主人公のかぐや姫だけではない。その周囲にいるひとびとのほぼすべて、登場するあらゆる人間たちが、揃いも揃って、これでもかというくらい愚かな過ちを犯す(数少ない例外は女童くらいか)。
悪人ゆえではない。誰もがよかれとおもったり、みずからの欲望に忠実に行動したりしたあげく、結果的にとりかえしのつかない過ちを犯してしまうのだ。
ただし、過ちを犯すこと自体が否定的に捉えられているわけではない。そのような愚かさのなかに、人間というものの存在のありようを把持しようとしている、そのように見える。
おそらくそのあたりに、高畑勲的な人間観を理解する鍵があるのではないだろうか。
そしてまた、だれもがそうしたくなるであろう宮崎駿作品と比較してみるのなら、この点で両者は思いのほか対照的であるということがわかる。
宮崎作品のばあい、主要登場人物がとるのは、結果として、つねに「正しい選択」である。局面において誤った選択をしたように見えるばあいでも、最終的にはそれは「正しい」結果へと結びつく。
高畑の『かぐや姫の物語』が人間を存在の様相において捉えようとしているのにたいし、宮崎作品のそれは、人間とはかくあるべしという理念の表出であり、そのことにたいする信仰の告白でもある。そしてそのような意味において、宮崎作品の人物たちはより虚構的であるともいえる。
両者のこうした違いは、良し悪しや優劣の問題ではない。どのようにして世界へ向きあおうとするか、その態度に拠るのだとおもう。