塚本晋也の『野火』

75年目の8月15日がやってくる。この時期ぼくがよく観る映画について書きたい。塚本晋也の『野火』(2014年)である。

映画『野火』は、塚本晋也が長年あたためてきた企画だった。だが製作資金は集まらなかった。企画内容を聞くと、みな尻込みしてしまったからだった。そのことに、塚本はいっそう危機感を募らせたという。けっきょく自主製作・自主配給という形で、2015年の夏、日本国内で公開され、観る者を烈しく揺さぶった。以来毎年この時期になると各地で決まってアンコール上映されてきた。

この映画では、ひとたび戦争がおきると、そこに否応なく巻き込まれてゆく「ふつうのひと」が、いかにして「人間」ではいられなくなってしまうのか、そのさまが詳らかに描かれている。より正しくいえば、そのさまだけが徹底的に描かれている。

映画『野火』 Fires on the Plain 予告編

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「人間」があたりまえのように「人間」でいられる状況のことを「ふつう」という。「人間」は、そうよばれる生き物が元からなにか高邁な存在であるから「人間」なのではない。なにか特別なことを行うから「人間」になる、というのでもない。

そうではなく、「人間」を「人間」たらしめるのは、いくつかのことを「行わない」からである。行おうとおもえば行うことはできる。にもかかわらず、「行わない」。そのように、いくつかの行為をあえて「行わない」ことこそが、「人間」を「人間」たらしめている。

なぜ「行わない」のか。そこには3つの要因が複合している。第一は、その個人がもつ理性による制御。第二は、一般に「習慣」とよばれる、反復によって身体化された実践のハビトゥス。そして第三は、社会的な規範である。

別の言い方をすれば、「人間」が「人間」でいられる条件は、一般に信じられているほど自明でもなければ、確からしいものでもない。条件が崩れれば容易に、「人間」は「人間」でいられなくなる。そしてその条件は、しばしば容易に崩れる。

戦争は、その最たるものである。戦場とは、日常の反転である。そこに放り込まれれば、ひとはとうてい「正気」のままではいられない。ましてや、レイテ島の戦いのように、最初から勝ち目はなく、兵力も火力も装備も練度も弾薬や糧秣の補給も、なにもかもが絶対的に不足した状態のまま、敵に蹴散らされて壊滅敗走を余儀なくされた状況であれば、なおさらである。

通常の意味での社会的な紐帯が寸断された状況では、ふだんどおりの習慣を維持する意味が失われ、理性の箍(たが)など吹き飛んでしまう。そして「ふつう」ではけっして「行わない」はずのことを、平気で「行い」はじめる。

こうして「人間」は「人間」でなくなり、ただ生き延びることだけをめざして、愚かしくも醜く蠢きあう。万人の万人にたいする闘争というまさしくホッブス的な「自然状態」の現出である。そのような世界のことを、ぼくたちは「地獄」ともよぶ。

「地獄」に巣くう「鬼」とは、「人間」であることをやめた「人間」にほかならない。戦争が「地獄」なのだとしたら、それは「ふつうのひと」をこのようにして「鬼」にしてしまうからなのだ。

映画の登場人物たちは、それぞれの人生を背負った存在であると同時に、映画を観るぼくやあなたの代理でもある。こんな状況におかれたなら、誰であれ例外なく、「鬼」にならざるをえないのだ。いまここでなにやら書き殴っているぼくも、それを読んでいるあなたも、もし兵隊に取られてこんな戦場へ送り込まれたなら、まずまちがいなく、「鬼」になる。世間でときどき見かける、やたらに威勢のよくて勇ましいことを叫んでいるひとであったとしても、やはり、「鬼」になる。ならざるをえない。

フィリピン・ネグロス島東海岸の街ドゥマゲテにて(著者撮影)。正面の島影はシキホル島。写真には映っていないが、左手にセブ島の南端が見え、フェリーが出ている。『野火』にも描かれているように、レイテ戦の終盤になって敗兵たちにセブへの撤退命令がだされた。だが実際に到達できた者はごくわずかだった。その後セブにも米軍が上陸した。

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原作である大岡昇平『野火』は、日本語で書かれた戦争文学の最高峰である。ぼくも数えきれないほどくりかえし読んできた。じぶんの著書のエピグラフに引用させてもらったこともある。この本を読んだひとは誰でも、それぞれの鮮明な映像を体験しているにちがいない。塚本晋也の『野火』には、かれの読書体験がそのまま映像として表現しなおされている。

原作と同じく、この映画も、二つの視点から捉えられる。ひとつは、主人公田村一等兵のミクロな視点である。そのミクロの視点が状況の内部から目撃するのは、上に述べたような「人間」たちの陰惨な行状であり、脆弱さと愚かさである。

ここに対比されるのが、マクロな世界、すなわちフィリピンの濃密な自然である。極彩色の花、したたるような緑、虫や動物や鳥たち、容赦なく照りつける光、ねっとりとまとわりつく湿気。ミクロに地を這いつくばる者たちには、もはやマクロな自然など目に入らない。そこを野火が仲介する。風景のなかに時折たちのぼる野火の、白くもあり黒くもある煙は、中間にあって両者を象徴的に媒介している。この対比の効いた構図のなかにおいては、「人間」でなくなった「人間」たちの行状は、正視するに耐えがたいほど壮絶かつ凄惨でありながら、どこか滑稽でもあり、存在の崇高ささえ、かすかに感じさせもする。

敗戦から75年の年月が流れた。旧日本軍の歴史は兵部省内に陸軍部と海軍部が設けられた1871年(明治4年)にはじまるとされている。解体された1945年までに74年の時間が存在した。もはや戦後は、旧日本軍の寿命よりも長くなった。その間、ぼくたちはさいわいにも戦争を直接には経験せずにすごしてきた。反面そのことは、戦争の痛さや匂いなどといった記憶もまた、確実に遠ざかりつつあることを意味している。

そうであるのなら、この映画の重要性はますます高まってゆくだろう。なぜなら、この作品を観る者は、塚本晋也=田村一等兵を媒介としつつ、みずからも戦争に巻き込まれ、「ふつうのひと」である観る者自身の人間性が解体されてゆくさまを、ほとんど身をもって経験することになるのだから。

75年目の8月15日がやってくる。この夏もまた塚本晋也の『野火』はアンコール上映されるようだ。Amazonプライムなど配信で観ることもできる。PG12指定。覚悟して観よ。

映画「野火 Fires on the Plain」公式サイト 塚本晋也監督作品
映画「野火 Fires on the Plain」公式サイト。塚本晋也監督作品 大岡昇平原作 なぜ大地を血で汚すのか 戦後70年を「野火」で問う。
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