歴史は、くりかえさないが、韻を踏む

「歴史は、くりかえさないが、韻を踏む」という格言がある。マーク・トウェインが言ったとされている。原典を確認していないが、いかにも言いそうなフレーズではある。

歴史は物理現象とはちがう。不可逆的であり、同一の事象は二度と起こらない。でも、たとえば経済におけるバブルとその崩壊のように、表面上の形は違えども、パターンとしてはよく似た事象はくりかえし起こる。まるで韻を踏むようにして。

この格言を思い出したのは、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)をめぐる政府の対応にたいして、旧日本軍の失敗を引きあいに出し、そのアナロジーで「あのときと同じだ」と批判するタイプの言説をかなりしばしば目にするからだ。きっと多くのひとにとって、あの戦争で徹底的に負けた記憶は、いまだに引きずりつづけざるをえない、いわばトラウマとなっているのだろう。たとえじぶん自身が直接経験したのではなかったとしても。

こうした言説のキーワードをあげれば、「ミッドウェイ」「ガタルカナル」「インパール」「特攻」など。どれも目も当てられないくらい悲惨な結果を旧日本軍にもたらした作戦である。

経営学の立場からの研究にもとづく『失敗の本質』という本によれば、太平洋戦争時の旧日本軍はたしかに失敗の宝庫だが、それは個々の作戦における個別の失敗というよりも、そもそも組織として問題だらけだったことによる、という。硬直化した人事、戦略の不在、無責任や責任転嫁の横行、希望的観測と建前論の跋扈、情報の軽視や事実の隠蔽、などなど。あらためて列挙すると、うーん、ひどいものである。

失敗の本質 -戸部良一/寺本義也/鎌田伸一/杉之尾孝生/村井友秀/野中郁次郎 著|文庫|中央公論新社
大東亜戦争での諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織一般にとっての教訓とした戦史の初めての社会科学的分析。

そして、そのような旧日本軍の組織的失敗に見られたのと同じような問題が、現在の政権・政府の組織にも見られるのだと、現今のコロナ対策を批判する言説は強調する。

仮にその指摘にあたっているところがあるのだとして、旧日本軍の組織的失敗のもっとも核心にあったものをひとつだけあげるとしたら、何だろう? 考えるに、それは目的の隠蔽、不明、ないしは不在、ということになるのではないだろうか。組織が組織としてめざすはずの目的が隠蔽されていたり不在であったりすれば、組織が目的にたいして合理的に構成されたり運用されたりするはずがない。

当時戦争を指導したエリート職業軍人や政治家たちは、神がかり的な大言壮語をくりかえしてひとびとを煽った。だが、そこで語られた内容をかれらが心底信じていたかというと、そこは微妙である。むしろ、大言壮語の中身など所詮は建前であり、かれらにとって「真の目的」ではなかったと理解したほうが妥当性が高い。多くのばあい「真の目的」すなわち「本音」とは、もっと俗っぽくてくだらないことだ。

たとえば、『日本海軍はなぜ過ったか』や『証言録海軍反省会』という本によれば、海軍が対米英開戦に反対しきれなかったのは、陸軍への対抗意識や、長年巨額の国家予算をつかいつづけてきたみずからの立場が正当化できなくなることを怖れたからだったという。つまり、かれらはその実、所属組織の利害や、組織内での自己の栄達や保身を優先し、国民の幸福などほとんど考えていなかった。じじつエリート職業軍人ではなく、徴兵によって民間から強制的に動員させられた下級の兵士たちは、あらゆる面において粗末に扱われ、戦争どころではないような劣悪な環境と陰惨な境遇に甘んじなければならなかった(吉田裕『日本軍兵士』)。

日本海軍はなぜ過ったか - 岩波書店
勝算もなく,戦争へ突き進んでいったのはなぜか.海軍エリートたちの生の声.その衝撃的な証言をめぐる白熱の鼎談.
日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 -吉田裕 著|新書|中央公論新社
310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻、体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏……。勇猛...

さて、旧日本軍の組織的失敗を確認したうえで、あらためてコロナ感染をめぐる状況下での政府の立ち居振る舞いぶりをながめると、たしかに両者には似ている点が少なくないような気もしてくる。そうだとすれば、現在の政権・政府もやはり、国民の安全・健康・幸福よりも先に、別の何かを優先しているのだろう。

聞くところによると、政府・政権を構成する政治家やエリート官僚たちのなかには、「経済をまわさないと日本がもたない」というようなことを公言する者がいるらしい。この話は、経済か自粛かという二項対立で語られがちだが、上述した失敗組織としての旧日本軍のアナロジーを媒介すれば、それも所詮は建前論の域を出るものではないということになる。

「真の目的=本音」は、おそらくもっと通俗的なレベルにある。つぎの政局を睨んだ売名や点数稼ぎ、責任回避や自己保身、猟官運動、あるいは省益誘導など、ようするに自己の利害調整である。

しかし、もちろんそのような「真の目的=本音」は、公には口外できない。それを隠蔽するためにくりかえされるのが建前論だ。建前論は、具体的な目的なりヴィジョンなりを欠いているため、空疎である。聞く者の心には響かない。くりだす施策は場当たり的で、効果が薄いばかりか、相互に矛盾してさえいる。支離滅裂なのは誰の目にも明らかなのに、その場しのぎの言いつくろいと強弁でもって、言い逃れることしか考えない。

こう見てくると現状は、旧日本軍のアナロジーでそれなりに説明できそうな気もする。もしそうだとするのなら、現在の政権・政府を支える官僚的システムは、75年前に解体されたはずの旧日本軍と、その組織的特徴を共有していることになる。それはふたつの可能性を示唆している。

ひとつは、こうした残念な特徴の数々は、けっして、ある二つの組織がたまたま同じように失敗したがゆえに顕在したのではない、ということだ。そうではなく、日本的な社会を背景にして構成されるある種の官僚的システム(必ずしも役所に限らない)に通有される「体質」のようなものかもしれない。だとすれば、それは日本的な社会のあり方と不可分にかかわっているだろう。

そしてもうひとつは、ぼくたちはおそらく(少なくともこの点にかんしては)じぶんたちがおもっているほど賢いわけではなさそうだ、ということである。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったのはビスマルクだった。

マーク・トウェインが言うように「歴史は、くりかえさないが、韻を踏む」のだとすれば、このあとには確実に、なんらかの「負け」がぼくたちを待ち受けている。それは、いったい「何」にたいする、どんな「敗け」なのだろう?

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