オリヴァー・マスッチ演じるヒトラーは、ヒトラーがたんなる「怪物」や「極悪人」なのではなく、またそのように理解してしまうことの危険性を説得的に示している。
かれがなぜ選挙で選ばれ、あれだけのひとびとの支持を集めることができたのか。それは、かれ自身がひとを惹きつける「魅力」をもち、人間の心の奥底をとらえる洞察力をそなえ、それらを十全に機能させるためのテクニックに通じていたからだ。
ドイツ全国行脚の場面をはじめとする諸場面は、マスッチ扮する「ヒトラー」が実際の街中へ入っていき、ふつうの市民と話をするというドキュメンタリー的な手法で撮られたという。実在するらしい右翼的な政治団体の事務所へ乗り込む場面まである。おまえらのやり方じゃ生温いんだみたいなことをいって罵倒したりするのである。
どこまでが仕込みで、どこまでがセミドキュメンタリーなのかは、観ているだけでははっきり判別はできない。いずれにしても、演じるほうも演じさせるほうも、よくそこまでやったものだと感心する。
そして、この手法によってカメラが捉えることになるのは、現代の日常へ突如闖入してきた「ヒトラー」にたいする、ひとびとの反応である。反発を示したり、あなたはここへ来るべきでないと諭すようなひともいる。
しかし他方では、「ヒトラー」と会話するうちに、ちょっとびっくりするくらい民族主義的で排他主義的な発言を漏らしてしまうひとも少なからずいるのだ。現代のドイツ社会では、日常的にはまず口にしないし、許される雰囲気ではないようなことを、ついついしゃべってしまうのである。
そうした人びとは、べつに騙されたわけではない。かれらもその「ヒトラー」が俳優扮する「フェイク」であることをわかっている。にもかかわらず、しゃべってしまうのだ。
映画は編集されているので実際にどのくらいの割合だったかは不明だが、どうやら少なくはなさそうだという感触は得られる。
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この作品が並の風刺とちがうのは、ヒトラーが大衆を扇動したという、ある種わかりやすい図式を更新してみせたことにあるだろう。そうではなく、ヒトラーとは、「大衆」とよばれるひとびとが無自覚のうちにみずから孕んでいる「怪物」が、ひとりの人物として具現したものなのだ。
それはもちろん、ヒトラーやドイツだけに限られた話ではない。とりわけ今日では、世界中のあちこちに通底することだろう。わたしたちはつい先日も、大衆迎合主義的な言説がいまや無視できない力をもちはじめており、それが社会にいかなる影響をもたらしうるかという例のひとつを目撃したばかりである。
もちろんわたしたちの住む今日の日本社会もまた、その例外ではないだろう。
なお、中盤でのテレビ局の会議室の場面は映画『ヒトラー――最期の12日』のパロディだという。プログラムにそう書かれていたのをみて、ぼくも思い出した。ヒトラー物つながりというだけでなく、そういえば製作会社も同じである。
この項おしまい。