リオ・オリンピックが始まった。わが家でも夜になると、テレビ中継を見ている。2200から始まる柔道は、いろんな国の選手たちが出てきて試合をするというのが、延々とくりかえされる。それを淡々と見ているのが、わりと好きである。
昨夜の柔道は男子90kg級だった。2回戦で、背中に「ROT」と大書した柔道着の黒人選手が登場した。ROTってどこの国なのだろう? 見当もつかない。すると中継が「難民オリンピック選手団」のことだという。Refugee Olympic Teamの略なのだそうだ。
試合が始まった。闘志をむき出しにしたりする選手が少なくないなか、ROTのその選手は、わりに淡々としたようすでたたかった。そのうち相手が指導をうけたため、このままいけば勝ちそうという段階まで来た。ところが、そのあと相手に寝技に持ち込まれ、関節技をかけられた。腕の関節を思いきり締めあげられている。
見ていた《みの》と《なな》が「あれはとんでもなく痛いんだよ」と口々に言う。かれらは体育の授業で柔道を教わっていることもあって、それなりに知っているらしい。ふつうはあまりの痛さにとても堪えられず、ほどなく相手のからだを叩いて降参の意を示すのだそうだ。実際そのあとにおこなわれた別の試合で、同じような状況になった選手が降参するまでの時間は、2秒だった。
しかしROTのその選手は違った。ただ締めあげられるにまかせているだけで、そのようなそぶりは見せない。表情も変えない。かといって、体勢を崩そうともがくようなこともしない。ただ黙って身をまかせている。
「なかなか降参しませんね」とテレビ中継のアナウンサーが、ちょっとあきれたように言う。解説者も相槌をうつ。「痛いと思いますけどね」
そのまま膠着した時間がつづいた。審判から「待て」の合図がかかった。締めはじめてから20秒ほど経過していただろうか。《みの》と《なな》は「よく堪えられたなあ、すごいひとがいたものだ」と感嘆しきりだ。
ROTのその選手は、とくに痛がるそぶりも見せず、それまでと同じように淡々と立ち上がった。試合が再開すると、前にでて相手に技をかけにいき、有効をひとつとった。そしてそのまま時間が来て、勝った。
礼がすんだあと、畳から降りると、見守っていたコーチと抱きあった。この試合でかれの感情が表出したのは、それが初めてだった。
かれの名はポポレ・ミセンガ (Popole Misenga) 選手、24歳、コンゴ出身だそうだ。戦火で混乱する母国から逃れてブラジルに渡り、そこで難民として認定され、柔道の練習をしているのだという。
国連高等難民弁務官のサイトにROTのことが紹介されていた。そのなかで、かれはこう述べていた。
「私は夢を追い続けるために、そしてすべての難民の悲しみを取り除き、希望を与えるために、難民選手団の一員になりたいのです」「私は難民でも大きなことができる、ということを見せたいです」「メダルを勝ち取り、そのメダルをすべての難民にささげたいと思います」
かれはつぎの三回戦で負けたから(ぼくはその中継を見ていないのだが)メダルを取ることはできなかった。けれど、二回戦で見せたかれのあの態度は、この言葉どおりのことをまさに実際に遂行してみせていたのだと、ぼくはおもった。