映画『翔んで埼玉』が予想外の動員を稼いでいるらしい。ぼくが観たときもかなりの混みぐあいだった。未見の方もなんとなく内容は知っているとおもうが、埼玉ディスりまくりのネタ映画である。けっこうおもしろい。
冒頭のダンスシーン(?)から、いきなりバカバカしい。この場面をみたとき、この映画はイケるのではないかと直感した。その期待にかなりの線まで応えてくれた作品だった。
プロットは類型的で、ひねりもへったくれもない。それが、ネタ映画らしさを増幅させている。ただしそれが狙いなのかどうかまでは、観ている側としてはわからない。
役者たちは、衣装から立ち居ふるまいまで、みなこれみよがしにわざとらしく、それがすばらしくよい。GACKTや二階堂ふみはもちろん、伊勢谷友介も武田久美子も、ちらっとでてくる竹中直人や麿赤兒まで、みなたのしそうだ。
わが千葉も、埼玉の永遠のライバルとしてなかなか重要な役回りで登場する。いっぽう神奈川県は、東京の腰巾着みたいな存在として描かれている。こうした関東各都県間の力学は、なんとなく、いまの東アジア諸国間の関係性の暗喩のように見えなくもない。そうおもってしまったら、笑うに笑えなくなるだろうけど。
こういう映画はとことん笑えるのがいいというのがぼくの考えだ。だが多くの日本のコメディ映画がそうであるように、この映画も残念ながらその手前で切っ先が鈍ってしまう。地域差別ネタにたいして、「突出したものはないけどいいところ」などというようにして、バランスをとろうとしてしまうのだ。
具体的には「現代」パートがそうだし、ストーリーのとくに終盤部などもそうだ。そうした妙なバランス感覚が、個人的には残念であり、この映画を、最大限に推すのをいまいち躊躇させる大きな要因になっている。個人的な意見としては、こういうネタ映画はさいごまで、ネタをネタとしてつっぱりとおしたほうが絶対におもしろい。
もっとも、いまのご時世、つっぱりとおした作品はポリコレ的「正義」の恰好の餌食にされやすいかもしれない。この映画がバランスをとることでやや腰砕け気味になってしまったのは、そこのところを「忖度」した結果なのか、たんに製作陣のセンスなのか。ただ、映画という形式なら、そうしたつっぱりが許容される余地がまだいくらかは残されているのではないかと、ぼくはおもうのだが(甘いかな?)。
もう一点。魔夜峰央の原作が描かれたのは1982-83年であり、当時の世界認識が土台になっているため、いま観ると、いまいちノリきれない点がある。それは、埼玉とか千葉あたりの差別ネタがネタとしておもしろくあるためには、東京が圧倒的に「都会」であるというもうひとつのネタが説得力をもつ必要があるという点だ。
東京が圧倒的に「都会」であるとは、ニューヨークが世界の頂点に君臨しており、そのつぎのランクに、非西欧圏最強の都市として東京が位置する、みたいな世界観のことだ。原作が書かれた1980年代ならそうした感覚はそれなりに説得力をもちえたかもしれない。だから「アメリカ帰り」という主人公の設定が機能するのだ。
しかし21世紀の現在においては、東京は必ずしも世界の都市として突出した存在であるとはおもわれていないだろう。シンガポールやら上海やらドバイやら、世界の「進んでいる」(と感覚される)都市は多様化しており、東京はそのなかのひとつに飲み込まれつつある。
その変容にたいする意識は、この映画からは排除されている。そのことが、この映画に微妙なノスタルジアを感じとってしまう要因になっている。
小難しいことはともかく、たのしく観られる映画であり、たのしく観ればよいとおもう。おすすめします。
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