駅でのできごと

夕焼けがとびきり美しい姿を見せてから3時間ほどあとのことだった。ぼくは電車に乗っていた。車内はひどく混雑していた。同じ車輌の遠くのほうで、揉めているような声が聞こえた。

駅について下車すると、ホームで二人の男性が揉みあっていた。先ほどの声のひとたちのようだった。

いま「揉みあっていた」と書いたが、正確には、年配の男が中年の男の襟のあたりをつかんでいたのだった。数名の乗客が仲裁に入ろうとした。すると、年配男は胸を張り、そのひとたちに向かって言った。「こいつ、痴漢なんだ」

襟をつかまれたほうの中年男は、「なんにもしていないですよぉ」とくりかえしていた。

改札口の駅員室までふたりを誘導しようとしたが、年配男は、動こうとしない。かれは言う。「さっき、女の子が駅員のところへいったから、すぐに誰か来るはずだ」

「女の子」というのは、どうやら痴漢の被害者、ということらしかった。

そのとき、発車する列車を見送っていた駅員がホームの遠くにいるのを見つけた。手を振って合図をすると、その駅員がやってきた。ぼくはかれに「なにか車内でトラブルがあったようなので、ご対応お願いします」と説明した。

ぼくがこの現場に立ち会ったのは、ここまでだ。だから、そのあと何が起きたのかは知らない。

知らないということでいえば、その前、つまり車内において、実際に何が起きたのかも知らない。どんな経緯で、年配男が中年男の首根っこを押さえて締め上げるにいたったのかもまったく知らない。だから、ここから先は、ぼくが勝手に妄想したことである。

このときぼくが思い出していたのは、以前に観た周防正行監督の映画『それでもボクはやっていない』(2007年)だった。その主題は、痴漢冤罪事件である。

『それでもボクはやってない』と『事件』
周防正行監督の新作『それでもボクはやってない』を観た。紀伊國屋書店の「 書評空間」のほうでは、これを浜田寿美男さんの著書『自白の心理学』(岩波新書、2001年)と関連づけて論じたが、ここでは別の視点から記しておきたい。 あちこちで話...

年配男がいうとおり、実際に痴漢のような行為が車内で発生したのかもしれない。その一方で、個人的には、それがなにかの間違いや勘違いであった可能性も排除できない、ともおもう。かりに痴漢行為そのものは存在したのだとしても、その行為者がその中年男と同一であったかどうかは、また別の話だろう。

いずれであっても、だれかが不幸になる話である。痴漢は、被害者にとって許しがたい卑劣な行為であろう。それゆえ、その容疑を疑われた人物が、実際にその行為をしたのであれば、罪にとわれるのは当然であろうが、それによって当該人物はすべてを失うことになる。当事者も周囲も不幸になることは間違いない。

他方で、まったく身に覚えのないひとが、なにかの加減で痴漢行為を疑われてしまったばあいには、また別の不幸が発生する。そのひとは、みずからに身に覚えのないことであるにもかかわらず、否応なく社会的制裁を受けるハメに陥る。身の潔白をあきらかにするには、行為の不在証明をしなければならない。だがそれは、現実にはきわめてむずかしい。ほとんど不可能に近い。

しかも、この主題にかかわる司法の制度的な問題点もある。先述の周防作品で焦点が当てられていたポイントだ。司法は、公正中立に事実を客観的に明らかにするということになっているが、実際には必ずしもそのように運用されているわけではない。

車内痴漢という問題の背景には、いうまでもなく、否が応にも他人とからだを密着させざるをえないほどの車内の過剰な混雑という状況がある。その環境は、だれにとってもストレスフルだ。好き好んで乗る者はいない。それでも多数のひとが同じ時間帯に同じ電車を利用するのは、そうせざるをえないという勤務上の制約ゆえだろう。

それほどまでにして、みんながみんな、毎日決まった時間にひとところに出勤しなければならないものなのだろうか。現状では、毎朝オフィスに着くころには、みんなすでに、ヘトヘトなのではあるまいか。フレックスタイム制や在宅勤務制がどれほど普及しているのかは知らないが、より多様で柔軟な勤務形態がもっとひろがれば、車内混雑は緩和され、痴漢事件はもちろん、痴漢冤罪事件も、もっと減るのではなかろうか。さらに、産業界のひとたちが好む言葉をつかうなら、そのほうがよほど「生産性があがる」のではなかろうか。そして素人考えでは、その実現はさほどむずかしいことではないようにおもうのだが。

でも現実には、多くの会社や組織で、それは実現できずにいるようだ。だからぼくたちは、それが神経をすり減らすとわかっていながら、そして、うっかりするとまるで身に覚えのないことで人生を「詰んでしまう」リスクをかかえながら、それでも毎朝毎夕、混みあった電車に乗らざるをえない。

そんなわけで、何もしていませんよぉと弱々しい声をあげて腰が引け気味になった中年男と、みずからの正義感に少し高揚したかのように胸を張る年配男という、二人の男の対照的な姿は、いずれにしても、ぼくの気持ちを暗くさせたのだった。

さらにいえば、ぼくが改札を出ようとしたとき、駅にひとつしかない駅員室の付近には、ついさっき駅員を呼びに行ったという「女の子」らしきひとの姿は見あたらなかった。ぼくが見落としただけなのかもしれないのだが。

あの夕焼けを目にしたのがたった3時間前のことだとは、どうしてもおもわれなかった。