SNS化したワイドショーとしての「自粛警察」

「自粛警察」という言葉をよく見かける。COVID-19(新型コロナウイルス感染症)にかかわる自粛ムードのなかで、他人に「自粛」を強要し、逸脱していると判断した相手を執拗に叩くひとびとのことをいうらしい。当人が信じる「正義」にもとづくかぎりじぶんには何をやっても許される権利があると考えている点で、「自粛警察」のふるまいは「私刑」の一種である。

「自粛警察」のそうしたふるまいは、かれらが初めて生みだしたものではない。かれらがしていることは、かつてのテレビのワイドショーや週刊誌がしてきたことの反復的な焼き直しである。

いまぼくはテレビとほぼ無縁の生活を送っている。いま現在のテレビ番組については無知である。しかし、それほど遠くない以前までのことなら知っている。

そのころ、テレビのワイドショーや週刊誌の一部は、あまり上等とはいえない類いの好奇心を煽るような言説を日々量産していた。芸能人の不倫を叩く。失態者をさらし者にする。センセーショナルな事件が発生すれば、関係者の誰かを「怪しい」と決めつけて執拗に追いかけまわす。それらは、いま「自粛警察」とよばれているひとびとの行状と相似形である。

建前としては「言論の自由」「知る権利」の下におこなっているとされていたのかもしれない。だが、それがもっとも手軽に視聴者・読者の関心を惹きやすく、視聴率や販売部数といった数字をあげやすかった側面があったことは否めない。いいかえれば、視聴者や読者の知的レベルをその程度と見切っていたわけで、じっさい少なからぬ視聴者・読者は、表向きはどうあれ内実としては、ターゲットにされた誰かが引きずり下ろされる様をショーとして安全地帯から見物することで、みずからの下作な好奇心や「正義感」が満たされる過程をたのしんでいただろう。

テレビや雑誌が、そのようなタイプの「情報」の中心的な発信源として存在感を発揮しえたのは、それがマスメディアの時代であったからだ。その時代において、情報を組織的かつ広範に発信をするためには、それなりに高価で大がかりな装置群やそれらをつかいこなす技術、そして流通回路といった一連のシステムをもっていることが不可欠だった。放送・新聞・出版といったマスメディア産業は、一種の装置産業であり、そうであるがゆえに参入障壁が相対的に高く、情報発信者の地位を独占することができた。少なくとも、そのようにふるまうことができた。

やがてデジタルメディア社会が到来し、SNSの時代に入って、そうした独占を可能にする障壁は、事実上崩れ去った。いまやスマートフォンさえあれば誰もが「情報発信」することができるし、げんにそうなっている。

ところが、「情報発信」を実践するさいの身ぶりについては、誰もが独創できるわけではない。ごく一部の例外をのぞけば、既存マスメディアのそれをなぞっているケースが大半だ。違いは、ポジティブになぞる(模倣)かネガティブ(裏焼き的に)なぞるかであり、あとは程度の差である。

「自粛警察」はけっして特異な現象ではない。むしろSNS化したワイドショー的身ぶりの典型例だといえる。その意味で、かれらは、かつてのワイドショーや週刊誌の「嫡子」なのだ。それも、デジタルメディア社会の常として、戯画的に誇張され、より醜く増幅された形での。