「コロナで世界は変わった」のか?

「アフターコロナ」「ニューノーマル2.0」「新しい生活様式」などといった類いの言葉が象徴するように、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の拡大以後の世界のあり方をめぐって、「すっかり変わってしまった」とする言説が飛び交っている。著名なひとも、ふつうのひとも、いまや誰も彼もが競うように、「コロナで世界はすっかり変わってしまった」と語りたがっているようにさえ見える。これらをまとめて本稿では「アフターコロナ言説」とよぶ。

たしかに、世界は不可逆的に変わってしまったように見えなくもない。すべての映画館やライブハウスが閉館させられたり、交通機関・飲食・宿泊などの需要が蒸発してしまったり、医療現場が崩壊の危機に瀕したりと、これまで考えもしなかったような事態がつぎつぎと起きた。政府が旗を振っても企業は重い腰をあげようとしなかったリモートワークも、ある程度現実のものとなった。——こんな調子で、例はいくらでも挙げることができる。

しかし、これらはいずれも表層的な事象だ。構造的には現在も、「コロナ」の以前と比べて大きく変容してはいない。というより、ほとんど何も変わっていないだろう。少なくとも、いまのところは。

格差も、差別も、分断も、グローバリズムも、大衆迎合主義の繁茂も、コロナをめぐる状況が抜き差しならなくなってから初めて突如現出したわけではない。SNSにあふれる罵詈雑言も、リモートでのやりとりも、為政者たちの無能や強権志向も、以前から見られたことだ。一人あるいは家族とともに自宅で過ごす時間の大切さだって、同様だ。いずれも、「コロナ以前」からすでに存在していたし、ぼくたち自身も、はっきり意識するにせよそうでないにせよ、どこかでそれをわかっていたことだ。ただ、なるべく気づかないようなふりをしてきただけだった。

むしろぼくたちはこう言うべきではないか。コロナをめぐる一連の騒動で露呈したのは、これまできちんと向きあうことを避け、見て見ぬふりをしつづけてきた「不都合な真実」の諸々なのだと。それを、ぼくたちは否応なく目の前に突きつけられたのだと。

構造化されているとは、社会的に再生産されるということだ。だから、もしコロナ以前と以後とのあいだで構造的に大きな変化がないのだとしたら、いま目の前で起きていることは、既存の「コロナ以前」によるバックラッシュにほかならない。「コロナで世界はすっかり変わってしまった」という類いの「アフターコロナ言説」も、この文脈で捉えられるべきだろう。

「アフターコロナ言説」の大半は、未だ到来していない将来をいち早く先取りしてみせるという「予言」的スタイルで語られる。その理由は、「予言」こそが、ある種のカリスマ性を演出し、ひとびとの目を集めるのにもっとも手軽なやり方だからである(ただし、その実効性の程度については語り手の資質に拠る)。

「アフターコロナ言説」において重要なのは、実際に世界が変わったかどうかという言説内容の当否ではない。言説を吐く当人にとって、そんなことはどうでもよく、それを言い立てること自体になんらかの利得がある。おそらく、ビジネスや言論の場における主導権を得ることをめざしているのだろう。

したがって、「アフターコロナ言説」のもうひとつの特徴とは、「コロナ」をめぐる一連の出来事から何かを学ぼうとするのではなく、ただ自己に利するチャンスとしてのみ捉える機会主義的な態度にある。

「アフターコロナ(コロナ以後)」を考え、社会をよりよく変えてゆきたいというのであれば、「コロナ」をめぐる出来事と経験から何かを学びとろうとする姿勢が必要だ。そのためにはまず、「コロナ」の渦中において起きた事象の諸々を観察する視座が欠かせない。じぶんの見たいように、ではなく、それ自体をマテリアルにながめる視座が。