わからなさのなかで宙づりにされること —— 映画『二重のまち/交代地のうたを編む』

小森はるか・瀬尾夏美監督のドキュメンタリー映画『二重のまち/交代地のうたを編む』は、東日本大震災をあつかっているという点でいわゆる「震災もの」のひとつに分類できるかもしれない。

だがこの作品は、ふだんわたしたちがあたりまえに考えているような「コミュニケーション」がじつはまったく「コミュニケーション」ではないことを浮かびあがらせているという点で、「震災もの」といった出来あいの枠組みを越えている。

しかし同時に、10年目の「3.11を忘れない」的な、むやみにわかりやすいメッセージの跋扈する状況を目の当たりにするにつけ、あえてこの作品を「震災もの」としてとらえる方途もあるだろうともおもう。

『二重のまち/交代地のうたを編む』の内容をぼくなりにまとめてみよう。震災による津波で壊滅的な被害をうけた陸前高田。そこでは盛り土によるかさ上げ工事がすすむ。かさ上げされた土地に新しいまちができ、住民たちが戻ってきて、そこに住む。

そこは二つのまちが重ねあわさったまちである。いま目に見えるあらたなまちの地下数メートルには、いまでは目にすることのできないかつての古いまちがある。あらたなまちでの住民たちの暮らしは、津波で失われた、いまは亡きひとびとの暮らしを下敷きにしている。

いまのまち、いまの暮らしは、目に見える。カメラで撮影することができる。いっぽう、かつてのまち、かつての暮らしは、もはや目で見ることはできない。さまざまな痕跡を手がかりに、想起するほかない。

この二重のまちに、四人の若者がやってくる。かれらは、小森と瀬尾が主催したらしいワークショップに参加するためにやってきたのだ。滞在期間は二週間。かれらはひとりひとり、まちに暮らすひとに会いにゆく。話を聞き、かれらの語りの内容にかかわる痕跡を見、触れる。そのようにして「受けとったもの」を、なにかしらの演劇的な表現として「伝える」ことが、そのワークショップの目的、らしい。

この作品がすばらしいのは、以上のような背景や粗筋について、説明らしい説明をきれいさっぱり排除していることである。作品は、四人ぞれぞれが、この二重のまち陸前高田でだれにどのように会い、なにを話し、どこへいってなにをしたかを追い、それらの断片を、淡々と積み重ねてゆく。観る者はみずから映像へ分け入り、断片を相互に結びつけ、読み解き、読み込んでゆかなければならない。

この姿勢は、作品の戦略やスタイルだけではなく、内容においても貫かれている。四人の若者たちが、陸前高田の二週間をへて到達するのは、なにかを「わかった」「うけとった」、あるいはだれかになにかを「伝える」といえるような地点ではなく、その逆である。すなわち、じぶんがなにかをたしかにうけとったかどうか自信がもてず、だれになにをどんな根拠にもとづいてどう伝えればいいのかも、わからない——。

他者の経験を理解すること、それを受け継ぎ伝えることがいかに容易ならざる困難に満ちているか、そもそもそんなことは可能なのかというとまどいと葛藤、そしてその最中で宙づりにされる四人の若者たち。そこまで達したところで、プツンとフィルムが途切れたようにして作品は唐突に終わる。同時に、観る者もまた、宙づりにされたまま放り出される。

考えてみれば、盛り土によって現出したあたらしいまちとは、宙に浮いたまちである。そこでは、目に見えカメラに写るものが、じつは宙に浮いており、想起によらなければ感得できないもののほうこそが地に足がついている。その事実に、観る者は宙づりにされて初めて気がつくのだが、しかしその時点ではすでに宙づりであるのだから、文字どおり手も足もだせず、もがくしかない。

いかにもわかりやすく提示される「答え」など、じつは「答え」でもなんでもない。いまわたしたちに必要なのは、わからなさのなかで宙づりにされることであるだろう。——これをすばらしいといわずして、なにをすばらしいというのか。

映画『二重のまち/交代地のうたを編む』公式サイト|小森はるか+瀬尾夏美 監督作
かつてのまちの上に、あたらしいまちがつく...