昨年度(2007年度)後期の授業で、デジタル・ストーリーテリングによる2分間の映像作品を制作した。前にもチラと触れたとおりである(過去記事)。受講した学生は、ひとり1作品ずつ制作した。その全作品(70本以上ある)の配信を、明学の文学部芸術学科のウェブサイト上にて開始した(こちらからどうぞ)。
ごらんになれば一目瞭然だが、制作技法の面でもテーマ把握の面においても、率直にいって稚拙の域を出るものではない。そのようなご批判は、むろん正当なものである。ただ、理解してもらいたい。この授業の主眼は、そもそも「上手」な映像作品をつくることにはないのである。
今日、大学の授業で映像作品を制作することなど、けっして珍しいことではない。だがそのさい、学生も指導する教員も、ともすれば作品をいかにプロのそれに近づけるかということだけに関心が集中してゆく傾向がある。そこではいきおい、技法の習得が主眼となってしまいがちだ。映像制作の職業的専門家の養成をめざすのなら、それでもいいのかもしれないが、じっさいには「プロごっこ」に終始してしまっているケースも少なくないのではあるまいか。
作品の技法的クオリティを確保することは、むろん重要だ。しかし、わが芸術学科は美大や専門学校のような実務家養成機関ではない。今回デジタル・ストーリーテリングによる作品制作においてもっとも優先されるのは、技法の習得や、プロの作品の上手な模倣ではないはずだ。そうではなく、ここでの制作は、あくまで「メディアを学ぶ方法」と位置づけられなければなるまい。そのとき最大の主眼は、制作の過程で学生自身がさまざまなことに気づいていくことにおかれるだろう。
ぼくが学生に要求したのは、ひとつだけ。どんなテーマでもかまわないが、いまじぶんが切実に言いたいことをとりあげよう、ということだ。そして、その点だけを企画段階から一貫して厳しくチェックした。学生の大半は初めての映像作品制作であり、経験者はごく少数だった。けれども、いずれの学生にとっても、こんな要求をされた経験はこれまでになかったらしい。
学生ひとりひとりからアイディアを聞く。じぶんの「切実なテーマ」にたどりつくまでがひとつの山だが、そう容易に掘り当てられない。そんなこと、学生が──いや、なにも学生でなくても──ふだんから強烈に意識しなどいないのが、ふつうだからだ。当然ぼくは幾度となく駄目だししなければならない。それは学生との真剣勝負である。適当なところで妥協すれば、学生たちはすぐにこちらの底を見透かしただろう。
学生たちの多くは、おそらく初めて真剣にじぶんの内側から表現しなくてはならない状況に直面した。今回の授業のなかで、そのなかでかれらが見出したものにこそ最大の意義があるとおもう。この4月からの授業で会ってみると、かれらの顔つきは確実に変わっていた。その変化=成長に、この授業が、たとえ小さくても、なんらかのきっかけを与えることができたのであれば、うれしくおもう。
そんなことを、作品をごらんいただくさいの裏話としてご承知いただければさいわいである。なお、公開する作品の著作権は制作者である各学生に、頒布権は明治学院大学文学部芸術学科に、それぞれ帰属していることをお断りしておく。