しばらく前に観た。哀しくさびしい映画である。
もちろん物語はあいかわらずだし、ハリソン・フォードも還暦をとうにすぎたとはおもえぬ元気さで、前作から19年というブランクなどなかったかのようだ。だが、いまは21世紀であって1980年代ではない。スピルバーグはえらくなりすぎて、もうなんだって撮ることができる。CG技術は発達し、技術的につくることのできない映像などない。制約がないということはじつにつまらないことだ。その真理を懇切丁寧に証明するために制作されたのだろう、この作品は。
立場・資金・技術といった、ふつうは避けてとおることのできない制約がとりのぞかれたとき、最大の鍵を握るのは想像力だ。ところが本作品では、スピルバーグがじぶんの想像力の限界を越えるべく挑戦した形跡は一切感じられない。チェイスも洞窟のしかけもクリスタル・スカル(なんで「水晶のしゃれこうべ」とかふつうに訳さないのだ?)の正体も、これまで何度も見せられてきたものの焼き直し。いや本人としては焼き直した覚えなどなく、観客の期待に応えたつもりなのかもしれない。
お約束だからとよろこぶ観客のほうも、やはり19年の齢を重ねている。前作を劇場で観たことのない観客にとって、むしろ本作品は古風で折り目正しく、ノスタルジックで古くさく感じられるのではないか。「冒険活劇」の意図を具現したつもりでいて、どうやら場ちがいにズレてしまっているのに気づけていない。むしろハリソン・フォードがずたぼろに衰えていてくれたほうが、まだよかった。
まいったのは原爆実験の場面だ。ホロコーストなら『シンドラーのリスト』のように撮るくせに、原爆となるとなぜこんな描き方しかできないのか。つい人間にとってのリアリティということについて考えてしまう。これもお約束だからまあ許す、というひともあるかもしれないが、ぼくは同調するわけにはいかない。