中学を卒業して27年経ち、初めて同窓会が開かれた。
集まったのは120名ほど。中学の同窓生とは卒業後ほぼ没交渉だったので、事実上27年ぶりに顔をあわせたのだった。
ところが、じぶん自身にとまどってしまうことがあった。たしかに同窓生だったと認識できたのが、全参加者のうちわずか3割くらいでしかなかったのだ。こうした事態は、数年前に20年ぶりとかで開かれた高校の同窓会では考えられないことだった。
むろん時間が経過したために、相貌が変わり記憶が薄れ、それによって相手を誰と特定しにくくなっているという一般的な事情はあった。しかし、ここでいうのは、そういう意味ではない。顔を見ても名札を見ても、誰だったかまったく思い出せないのだ。このとまどいは、ぼくがその場に集ったひとびとにたいしてというだけでなく、逆もあっただろう。あるいは、もともと中学生のころから知り合いでなかったのかもしれない。卒業生はたしか四百数十名もいたのだから、そうだったとしても別段不思議でもなんでもない。
同窓生であるはずの集団の7割について記憶がないという数字に注目するとしたら、それはぼくのその中学への、あるいはいまも実家のあるその地域へのかかわり方にかんするひとつの現実を示しているのかもしれない。端的にいえば、中学時代について、いまのぼくが生起することのできる記憶は、ごく限られたものでしかないのだ。じつに基本的なこと、たとえば二年生のときのクラスが何組だったか、担任の先生の名前も顔も人柄といったことからして、なにひとつ思い出せない。
その中学は、名古屋市内にいくらでもあるごくふつうの公立の中学校だった。いわゆる「校内暴力」の時期であり、校舎内では、そのラベルに一定程度ふさわしい様相を呈していたし、卒業後に進学しなかった生徒も数名いたはずだが、そうしたこととて、当時必ずしも特殊な範疇に入れられるべきエピソードではなかったはずだ。
少なくともぼくたちの時代、学区に住む該当学齢の男女の大半は、その中学の生徒になるのが通例だった。何代も前からその地域に根づいている家に生まれ、中学卒業後も、同じ地域内で、あるいはそこからさほど遠くない地域に住みつづけている者が少なくなかった。つまり地縁による結びつきが強く、比較的同質性が高かった。じじつかれらは成人したり、職に就いたり、結婚したりしたあとも、お祭りなどの地域の行事などの機会に、しばしば顔をあわせてきたという。
一方ぼくはその地域からみれば終始「一時滞在者」であり「余所者」でしかなかった。その地域に転入し、大学入学のために転出するまで──つまり実際にそこに住んでいた期間は、たった10年にすぎない。それ以前は市内の別の区に住んでおり、それ以後はずっと千葉県内で転居をくり返してきた。地理的にも精神的にも、じぶんの育った街から隔てられたところで生活することを、結果的には選んだわけだ。しかも、そこに暮らした10年間は、客観的にみれば凡庸きわまりないとはいえ、主観的にはあまり明るいとはいえない時間だったから、その後あまり積極的に記憶を参照しようとしなかったような気もするのだ。
だが、これとは逆に、それでも3割の同窓生たちとはたがいの記憶を符合させることができたという事実に注目する立場もとりうるかもしれない。
この立場の効能は、まず、ぼくがたしかにその中学に通っていたのだという確信がもてることである。27年間にそれぞれがどんな時間を過ごしてきたのか、同窓生たちの話はいずれも興味深いものだった。いまもその地域内やその近隣に居住している同窓生たちが異口同音に語ってくれた内容は、かれらの記憶が地理的環境に結びついていることを示していた。すなわち、それはぼくの実家の地理的環境である。実家はたまたま、その地域を移動するさいに必ずとおらなければならない交通の要衝(中学生の三年間毎日往復した通学路でもある)に面している。かれらは、自転車やクルマで──移動といえば乗り物によるのが前提であるのがいかにも名古屋的である──その地域内を移動するとき、必ずぼくの実家の前を通過することになる。そのたびに、ほぼ自動的に否応なく、ぼくのことを想起したという。
同窓会の終わり際、ぼくは同窓生のなかに、小学校高学年から同級だったとおもわれる顔を見つけて近寄り、挨拶をした。27年後のその会場ではわたしたち二人はほぼ同じような背格好をしていたのだが、小学生・中学生当時のかれは野球部のエースであり、学年中でもっとも立派な体格をしていた。早生まれで身体の小さかったぼくは、いつも見上げるようにしていたものだった。かれもまた、この27年のあいだに何度となくぼくの実家の前を通りかかり、そのつどぼくのことを想起したというひとりだった。
突然かれは声を落とし、すまなそうに、こうつぶやいた。「いつだったか、なにかのはずみでおまえを殴ったことがあるんだよな。どうしてそんなことしたのかなあ。なにやってたのかなあ」。たしかに何人かと喧嘩をしたことはあっただろうが、ぼくはその相手や具体的な状況や原因など、もうすっかり忘れていた。かれの話を聞かされても、思い出すことすらできなかった。けれども、27年後にわざわざそのことを気にかけてくれているかれにたいして、それを言うのもおかしいような気がした。もしかしたら、ぼくの実家の前を所用で通りかかるたびに、この記憶がかれの気持ちをわずかでも痛めていたかもしれないからだ。それでぼくは、ただこう答えた。「子どもだったからね、おたがい」