映画『GSワンダーランド』(本田隆一監督)を観た。こう言っては失礼になるだろうが、拾いものだった。
もしこれが、GS(グループサウンズ)にたいするノスタルジックな思い入れにたっぷり満ちていたのなら、救いがたいフィルムといわねばならないところだった。むろんGSについて相応の敬意を払うことを忘れているわけではない。だが、あくまで歴史として対象化され、一定の距離を保っている。この姿勢がよい。
お話の舞台は昭和40年代半ば。とはいえ、相手どっているのはどこまでも「現在」そのものだ。ちょうど『ALWAYS 三丁目の夕日』やら『私は貝になりたい』やらがそうであったように、「記憶」を「捏造」してそこに浸るのではなく(それもある種の「現在」を表象しているわけだが)、GSの熱狂を素材にした青春コメディであり、ドラマである。その味わいは、さわやかでも甘酸っぱくもなく、なかなかに苦い。
昭和という時代を描くときについてまわるアイテムが、ここでも重要な役割を与えられている。テレビジョンである。テレビのテレビ性として象徴的に描かれるのが生放送であり、これまでも幾多の作品で語られてきた神話が、そっくりそのまま反復されるのを画面に見出すことができる。すなわち、少数の出演者が大多数の視聴者(「大衆」といったほうがふさわしいのかもしれないが)にたいし、中間の媒介者を抜きにして、直接的に接触する、ある種の偶有性の生起する場、という神話である。その意味で本作品は、1961年の『乾杯!ごきげん野郎』(瀬川昌治監督)の「後日譚」であるということもできる。
だから──かどうかは知らないが、これもまたテレビ局映画だ。ただし、日テレやフジといった民放キー局ではなく、ネットワークに属さない独立U局(tvk、テレビ埼玉、千葉テレビ、サンテレビなど)が製作にかかわっている。全体から立ちのぼる二番煎じ臭は、このあたりの成り立ちにも関係しているだろう。
欠点を指摘することは別段むずかしくはない。演技は拙い。脚本は、手堅くはあるが、よく練られているとはいいがたい。画面は可もなく不可もなく。この手の作品でしばしば話題となる時代考証も濃淡が著しい。
それでも特筆すべきは、これが原作ものではなく、監督のオリジナルな企画だという点である。この手の娯楽物でオリジナル企画を実現することは、今日の邦画界の状況からしてひじょうな困難がともなうはずであり、これに要した努力と執念(と幸運)は、並大抵のものではなかったはずだ。
その困難を乗り越えるために製作者サイド(監督やプロデューサー)がしかけたのが、昭和ノスタルジー・ブームを逆手にとる、という戦略ではなかったか。それは結果として作品を完成・公開させることを可能したという意味で、一定の成功を見た。しかしいまや本作品は、手玉にとったはずのノスタルジアに逆襲され、その奔流に押し流されようとしているかのようだ。だとしたら、それはちょっと惜しい。