映画『ディスコ』

『ヤング@ハート』()や『ウォー・ダンス──響け僕らの鼓動』()とちがい、こちらは劇映画。おフランスの、けれどもインテリ御用達でなく大衆向けの娯楽作品である。作品の出来としては、特筆すべきものは見あたらない。だが「音楽やダンスによるアイデンティティ再構築もの」という切り口からみれば、これはこれで独自の興味深さをかかえた作品だといえる。

舞台は港町ル・アーヴル。主人公は、かつてディスコ狂いで知られた中年男だ。かれは、うらぶれたこの港町と同じようにすっかり時代から取り残され、何にたいしても熱意がもてず、抜け殻のような日々を送っている。仕事といえば詐欺まがいのウォーターベッドの仲介販売、妻には逃げられ、引きとられていった息子にも会えない。ところが、20年ぶりにディスコ大会がひらかれることになる。いまは英国にいる息子を夏のバカンスのあいだだけよびよせる資金を得るために、ディスコ大会で優勝しようと一念発起する。40歳をすぎたにもかかわらず。

設定、主題、物語から、個々の場面構成にいたるまで、1977年の『サタデー・ナイト・フィーバー』を踏襲している。パロディといえばパロディで、基本線はコメディである。もっとも、こちらにフランス大衆文化のテイストへの理解が乏しいためか、笑っていいものかどうか戸惑う場面にしばしば出くわすのだが。

『サタデー・ナイト・フィーバー』という映画を実際にみれば、よく言われるようなディスコブームの象徴という風俗史的位置づけがどれほど一面的であるかがわかるだろう。フィルムの全体を暗く覆っているのは、米国社会のなかでなんの希望ももてずにいるイタリア系移民の末裔の苛立ちだ。同じようにこの『ディスコ』も、ある種の閉塞感によって蓋をされている。その息苦しさは、けれどもせいぜい息苦しい程度のものであって、『ヤング@ハート』や『ウォー・ダンス』のようにあからさまな「死」でもって縁取られているわけではない。あれに比べれば、本作品の主人公たちの直面するアイデンティティ危機やそれをもたらす状況は、生死の境界を越えて往還せざるをえないような切羽詰まったものではなく、牧歌的にしてむしろ幸福といってもかまわない程度のものであるようにおもわれる。

だが、本当にそうなのか。

本作品の最大の特徴は、音楽やダンスによってアイデンティティ再構築をはかろうとするかれらの挑戦が、その過程においてはともかく、結果においては何かを劇的に変えてしまうことがないものとして描かれる点である。じっさいダンスによって主人公が最終的に手にできるものもじつにささやかなものでしかなく、状況は根本的には何ひとつ変わらない。

裏返していえば、ここで主人公たちが投げ込まれている状況──フランスに限らずポストモダン社会に通有される──や、そこで感じられる漠然としたアイデンティティの危機は、音楽やダンスによる身体の恢復というテーゼをもちだすだけでは、とうてい解消されるような性質のものではないことが示唆されるのだ。

それは、高齢者や紛争犠牲者が直面せざるをえない「死」のように、ある種直接的な形をともなって襲いかかる、誰の目にもそれとはっきり認知できるような恐怖や危機ではない。曖昧模糊としてとらえどころがなく、幸福とも不幸とも言い切ることがむずかしく、それでいながら、その先にはけっして展望を描くことができないでいるような状態。ベタな言い方をすれば、行き場のない息苦しさ、閉塞感などという言葉とともに感じられるものだといえる。

娯楽作品のばあいたいていは、その曖昧な息苦しさのなかで泥臭くあがいてみせることがじつは閉塞を打ち破ることにつながるのだという、冒険譚の話型を踏襲することで、観客の共感を得るべく、一時だけでも現実の冷酷さから目を逸らそうとする戦略を採る。本作品もやはり同じ話型を採用しているにもかかわらず、最終的に語られるのは、少しばかりあがいたところで展望など拓かれることはなく、そもそも何をどう「あがく」べきなのかということさえもが不明瞭なのだという、シニカルな、しかし正確な認識である。

宙づりにされたまま、どうにもならないでいるわたしたちの「生」。それは、ダンスや音楽を媒介とした身体の実在性にすがったところで、それらが無条件に生の確からしさをとり戻してくれるわけではない。それどころか、むしろその宙づりの状態が無限に先送りされつづけることを思い知らされるだけだ。そのようにして漂わねばならない不安こそが、今日の「生」の成り立ちに不可欠なものであり、その現実に含まれるのは、老齢や紛争がもたらすものとは異なるもうひとつの「凄惨さ」にほかならない。そのことを、この気楽な娯楽映画はまざまざと見せつける。