赤影参上

ここ数カ月、子どもたちのお気に入りは『仮面の忍者赤影』である。週末の夕食が済むと、いそいそとDVDをセットしては数話ずつ観る。金目教篇、卍党篇と来て、いま根来篇。これもあと2話で観終わるところまで来た。

最初のテレビ放映は1967-68年。当然ぼくもリアルタイムでは観ていない。夕方の再放送の時間帯に観ていた。

好きな番組だったのだが、物語の中身はほとんど覚えていない。戦国忍者の赤影の髪型が七三なのは変だとか、特撮がメリエス時代なみにチャチだとか、どんな窮地に陥ってもすべて忍法ということで切り抜けてしまう超テキトーなご都合主義だということには、子どもながらに気づいていた。

今回あらためて観ると、赤影の髪型は、七三というよりほとんどリーゼントであった。戦国時代なのに。金目教篇のオープニング「赤影マーチ」はあいかわらず胸躍るものであるが、タイトルバックに挿入される歌詞のテキスト「手裏剣シュ、シュ、シュ」の「シュ」の数が、じっさいに歌われる歌詞よりひとつ多い。卍党篇に入ると修正されているのが、かわいらしい。

忍者モノといえば、その奧に何か深いもの──たとえば差別のような政治的課題──を見出して、これをテキストに祭りあげてしまうような読みをすることもできる。それはそれで重要であろう。赤影にだって、そういう面を見出そうとすれば、できなくはない。だがたぶん、そうしたアプローチは『赤影』の魅力をより浮かびあがらせるものではないだろう。ぼくがいまでも『赤影』を面白いとおもうのは、そういうことがあるからではない。人物や状況設定のぶっ飛びぐあい、荒唐無稽さである。

戦国時代を舞台にしてはいるものの、怪獣は登場するし、速射砲や無反動砲をはじめ、自動小銃、レーザー砲、空を飛び水中も航行可能な円盤、ヘリコプターなど、時代考証もへったくれもなく、これでもかというほどつぎつぎと、レトロモダンなアイテムが登場する(とくに卍党篇)。

さらに回によっては、レイ・ハリーハウゼンみたいに骸骨が踊ったり、西部劇のテイストが織り込まれたりして、とにかく作り手のノリみたいなものがひじょうに強く感じられ、その破天荒ぶりがこの作品に力を与えていることがわかる。

興味深いのは、それをあらかじめ狙ったわけではなく、ただ限られた予算のなかで面白さを追求している帰結として生まれたという点である。制約要因は必ずしも創造を抑制するのではなく、むしろ逆に、不可欠な要素といえるかもしれない。現に湯水のごとく資金と時間を投入してつくられたにもかかわらず、すぐれた作品と呼ぶにはほど遠いという例を、いくつもあげることができる。

1980年代以降、アニメやテレビドラマや今様にアレンジされた劇場版実写映画などつくられたが、ぼくはいずれも未見。あまり面白くはないらしい。もしそれが事実だとすれば、それはそうした企画が、オリジナルのテレビシリーズの枠組みから一歩も出られていないからではないか。オリジナルの『赤影』の面白さは、従前からある忍者モノや時代劇の枠組みを換骨奪胎して、まるっきり違う独特のテイストをつくりあげていることにあるのだから。